凶器の瞑想・乗車

私はよく車に乗る事を『凶器の瞑想』などとお話しさせて頂く事があります。私自身は運転やドライブが好きで、今までも関西や山陰、山陽、四国、東北に至るまで、出張セッションなどに於いても車で往復する事が多かったりします。注意散漫が事故につながる事は誰しも知っていますが、禅寺などで座禅を組み気もそぞろになればビシッ、ビシッと僧侶に警策で肩を打たれれば、また凛とした境地に戻る事も出来ますが、運転しての意識散漫はそのまま大事故につながり、自分はおろか人の命さえ奪う事にもなりかねません。

単純に意識散漫、注意力の欠如(心の病の場合も)というものにもそれを支える怒りや憎しみや嫉妬、恐れや不安、何らかの感情を伴う『画像』というものが強く影響を及ぼしているもので、例えば、運転する前などに会社の上司から激しく叱責されたり、嫌味を言われたり、激しく罵りあう夫婦喧嘩や親子喧嘩をしたりと、そんな後で車のハンドルを握り運転したとするならば、表身は平静を装ったドライバーでも、中身は阿修羅とも羅刹とも鬼神ともつかぬ(笑)葛藤の権化となってしまい、相手を攻撃する想いや自己弁護するかの様に出来事を脳内でリピートさせて見たり、たらればのストーリーを繰り返し思い描いたり、自己憐憫に浸ってみたり自己嫌悪に陥ってみたりと、めまぐるしく自我の攻撃に苛まれる事から

当然自分の中心に意識などない事から、意識散漫、注意もおろそかになる事必至なものがあり、危ない事この上ないものがあります。私などでも心に強くブロックするものが生じた様な時はクリアにするまでハンドルは握りません。
また人間というのはこうした状況に於いては、アイデンティティを喪失するかの様な被害者意識に陥りやすいもので、こうした状況を無意識下で打開するかの様に内面での失地回復とでもいうべき相反する行動にプログラミングされやすいものもある様です。

いつもなら気にならぬ他の車の割り込みにもまるで自分が馬鹿にされている様に過剰反応し、車間を詰めて入れさせなかったり、そこでクラクションを鳴らし鳴らされ、益々不快な想いを募らせたり、いつもなら慎重な交差点内での運転でも、信号の変わり目にアクセルを強く踏み無理な進入をしたり、曲がり角などでの譲り合いが出来ずトラブルになったり、心ここにあらずの状態で割り込みをして逆に後ろから煽られたり、信号無視や違反でキップを切られたりと、自らの中心にいないブレある意識の運転は事故や対人トラブルに直結しかねないものがあり、そうした意味に於いて運転を凶器の瞑想などと命名しているものです。

それでも無常を生きる感情の生き物である私達人間、突如としてあるいはジリジリじんわりと自我の攻撃を受ける事はままあるもので、そうした内面に差し込むお試しの様な出来事、ほぼ全てに人の影が介在しているものですが、思考で一生懸命解決しようとしても次から次へと疑念が出てきてしまい益々精神的な疲労を深めてしまう事にもなりかねません。

そうした快不快の波は苦の娑婆を生きて行く上で付き物の泡の様なものと深刻にとらえない事が大切であり、その様な状況下で運転をしなければならない時でも、内面に生じている葛藤や怖れや不安も仏教の視点視座で言えば執着や妄想の類いであり、運転時などグルグルと葛藤の画像が発生してきたならば、出発から到着までハンドルを握りながら『妄想、妄想、妄想』『放っておけ、ほっとけ、ほっとけ』と声に出しながらでも運転されると良いかも知れません。

私が見てきたパターンですと、細かな事故や違反を繰り返す時などその後、命に関わる大事故や事件、大病の前兆やサインの様に現れている時が多かった様に思えるものです。
 

合掌

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密教僧侶ヒーラー正仙
元ヤクザ組長から密教僧侶ヒーラーになった男
真言宗・大元吉祥堂・堂主・ヒーリングルーム吉祥・主宰

かつて極道の世界に身を投じていたが、獄中にて
スピリチュアルな気付きが始まり、出所後堅気になり、
その後真言宗僧侶と成る。

あたり前に生きる事が難しい今の時代、
自らを不安や恐れと言う闇の中に囲い苦しんでいる方達に
それぞれの方が本来持つ、
あるがままの素晴らしい光や輝きに気付いて貰える様に

愛を基にしたパワフルなヒーリングやリーディング、
講演を心掛けて行きたいと思っています。

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