たとえば、猛暑の中、よそ行きの服などを着て出かける時など、これから訪れる先のエアコンの効いた空間で冷たい珈琲を飲む自分を連想し出かけ様とする。ところが、室内のエアコンを切り、出かける間際になって、あるべきものが無い、持って行くべきはずのものが無い事に気付く。さりとてお構いなしに汗は滲んでくる、汗で肌着が絡みつく様で不快の念が湧き上がり、全て脱ぎ捨てて冷たいシャワーを浴びて仕切り直したい欲求さえ湧き上がる。
されど時間が無い、化粧が落ちる心配をしながら(女性の場合)首筋にハンカチを当てながら家を出る。今になって、このクソ暑いのに黒い服を選択した自分が呪わしく、汗が滲んで脇下から白く塩でも吹く心配も出てきた。
バス停に着くもここでもバスに乗り遅れさらに不快の念が増す。そういえば、家族の誰某が出勤前の段取りが悪い事で注意し、それに気を取られていたせいで自分までもがアクシデントに見舞われた様で家族が憎々しい。炎天下の中、いつもは待たずに来るバスが延々と来ない様に感じ、自分めがけて意地悪をされている様にさえ感じる。
予定外の出費ではあるが、意を決してタクシーに乗り駅に向かうも、走り出したエアコンの効いた車内にホッとするのも束の間、後ろを振り返れば、今しがた到着したバスが見え、地団駄を踏む思いのまま気が付けば般若の形相の自分。
と、極端なたとえかも知れませんが(笑)誰しもこれに類した出かけ際の『赦しのレッスン』というものを体験されて来ているのではないでしょうか?暑さや汗という事から端を発して、感情を乱し幻惑されるパターンというものですが、こうありたい、こう思われたいというその時々の自分の都合、それに反する様に生きるというのは思い通りにならぬ人や出来事の連続です。
仏教でいうところの一切皆苦(いっさいかいく)とはこうした人間の思い通りにならぬ事象、他者、生き方、人生にさえ言及したお釈迦様の言葉ですが、逆を言えば、どんな出来事であろうとアクシデントであろうと、難儀に絡んでくる『私』を外して冷静に理性的に対処し振る舞う事が生きる上で大切であると教えてくれている言葉でもあります。
昨日などもエアコンを切り半日掃除などをしておりましたが、滂沱の様に流れる汗で、首にかけたタオルを絞れば汗が滴り落ちるのではないかと思えるほどでしたが、はなから汗をかき汚れるものと決めた上での事なので、肌着を濡らす汗も気にならず、開け放った窓から微かに流れてくる微風さえ心地良く感じるものです。