「既読疲れ」が言われる最近ですが、ネット社会が生み出す一つの縛りを象徴する様な言葉ではあります。
LINEやフェイスブック(メッセンジャー)などに見られる既読のシステムと言うもの「既読になっているのに返事がなくてそれで…」と言う様なお話しを聞く度に私は「取り調べのジレンマ」を思い浮かべてしまうものです。
これは警察に捕らわれ、別室にて取り調べを受ける共犯者がどこまで自供しているのか?刑事はすでに罪を認め自白していると(共犯が)揺さぶりをかけてくるし、本当はどうなのか?そんな事ならいっその事こちらが自供して楽になってしまった方が良いのではないのか?など葛藤の内に悶々とする様を表したものですが…
初犯だったり逮捕経験の少ない人間は身体を拘束され連日の刑事からの心理的な責め苦に耐えきれず心折れ、調書に指印捺印の上罪状を認めるサインをさせられてしまう傾向もあり、単独犯ならともかく共犯者の名前をうたい(自白)逮捕させた、組織に迷惑をかけたとなると話は別で、そうした事は裏社会で生きる人間にとって汚点と見られる事であり、たとえ十代や成人間もない頃の事件ではあっても、こうした事は後々まで、その人間の「警察根性(取り調べで否認を貫く事)」や仲間を売らぬ「アゴの固さ」など不良の性根をはかるものとして吟味され、幹部への昇進時などにも大きく響く世界でもあった様な気がします。
一般社会では学歴が問われます。意外と思われるかも知れませんが、極道の社会では逮捕された罪状、婦女暴行や窃盗などの破廉恥な逮捕歴がないのか?警察での取り調べ時でも否認を通し仲間を売る事がなかったのか?と言う様な事もヤクザとしての資質をはかる査定の対象となる事でもありました。
さて、こんな裏社会のよもやま話しと(笑)紳士、淑女のLINEの既読疲れは一見関係無き事の様に思えますが、でもこれは…
「既読がついた相手が見えない」
「別の取り調べ室にいる共犯が見えない」
と言う事に於いて共通するものがあり、猜疑心を投影しやすい対象としても共通のものがあるのです。
それが友人でも恋人でも円満な関係にある時と云うのはLINEやメールの応答のスピードなど意に介さないものがあったりもしますが、何か関係に陰りや滞りを感じ始めると今まで何でもなかったそれらの事に引っ掛かりを生じさせるのも人間の様です。
「午前中に既読になっているのに何で返事が無いの?」
「こちらから丁重にイベントのお誘いをLINEからしているのに既読のまま何日も放ってあるのってどうよ!?」
「そう言えばこないだ会った時の態度もおかしかったが何か心変わりでもしたのだろうか?」
「俺に内緒で実は他の男と会っていやがってバツが悪くて返事が出来ないのでは?」
「既読からしばらくたって連絡よこしといてPC閉じて寝ていたなんて嘘言わないでよ、その時間にあなたがフェイスブックで仲良く私の友達の〇子さんとコメントのやり取りしているの見ているんだからさ、それってあたしをないがしろにしてるわけ💢」
などなど…笑
通信速度の早い現代のネット社会、いつの間にか通信媒体のスピードに合わせて人にも承諾、了解など、意志の疎通を求めるスピードに於いて熟考、タメを置かせないシステム、連絡網の体制がすっかり出来上がってしまい、ビジネスでは有効でも、人間関係に於いては必ずしもそうとは言えない部分もある様です。
私のセッションをお受けになる方の中にはこのLINEやフェイスブックなどを通して発生する人間関係の葛藤などを赤裸々にお話しくださる方もいたりします。
単純にフェイスブックの「いいね」一つとって見ても「あの人にいいねしといて何でこちらにいいねつけないのか、それで円満な人間関係なんか築けませんよね正仙さん」と話してくださる方もいたりで…
こうしたケースでのお話しを聞いていると、同じグループや友達関係にある人同士で付け合う「いいね」をチェックしている様な場合もある様で、共通の友人間でのいいねの頻度もチェックし、そこに嫉妬や猜疑の渦を発生させてしまうと…「こんな私って病んでますよね?」と話してくれた方などもいたものですが、それに対して私は「病んでなんかいやしませんよ、人間と云うのは人から見ればどうでもいい小さな事にもひっかかりを生じさせる可愛い生き物ですから」と答えたものです。
私はこう見えても(笑)結構女性の恋愛相談などを受ける時も多いものですが、恋愛のその当初、やはり相手の気を引きたい一心で本来の自分では無い偽りの姿を演出した無理、前提の違いと言うものが破局時には相手に追いすがる様な執拗さに姿を変えている場合もある様で…
言い換えるなら「貴方にあわせてこれだけ尽くしてきたのだから貴方だってそれに当然報いるべきだ!別れるなんて絶対認めない!」と報酬を求める飽くなき執念へと形を変えてしまっているものをお見受け出来る時も多いものです。
こうした時に相手の気持ちを知りたい、繋ぎとめたい一心からのLINEでのメッセージのやり取りと言うものも、既読から返信なしの放置の様な状況からスマホやiPhoneに連絡すれば留守電へ転送といった具合に薄氷を踏む様に落ち着きを得ぬ状況が繰り返され、茫然自失となっているところへLINEの返事が返ってきたと思えば、白々しいクールダウンされた言葉の羅列にショックを受け、もう別れてもいいのか?それともやり直しを望んでいるのか?自分でもわけがわからない、そんな状況で対面なり電話でのセッションにお申し込みくださる方も多かったりします。
勿論、元極道の私にセッションを申し込んでくださるだけあって、上記の事柄にさらに不倫やW不倫の状況などがオプションされている場合も多かったりもしますが…笑
こうしたケースでのセッション時など結果として私は言葉柔らかくともその方の痛いところを突く形になってしまう場合が多い様な気がします。そうすると、自分で気張って認めまいとしていた頑なさが溶ける様に涙を流される方もいたりするものです。
でも、恋愛などに於いてたとえ終わりが来ている事が分かっていても、ドンとしっかり手応えなり体感のある形で決着をつけたいと思うのも人間で、こんな時期と言うのは過去の話しを持ち出して相手をなじってみたり、かと思えば謝り、恋人としてやり直しを懇願する様なメッセージを送って自己嫌悪に陥ってみたりと「自分がストーカーになってしまった様で嫌だ」との感想を持っている場合などもあり、その疼きを埋める為にさらに分裂エスカレートさせる事などエゴの好むところでもあるのです。
そんな時私は「自分自身を汚れやストーカーだなどと決して思わないでください」と前置きした上で不安を埋める為に分裂させた思考からの行動、LINEや相手へのアクセスが益々相手の逃げ腰に拍車をかける真理などもお話しさせて頂き、相手に貼り付けていたエネルギーを取り戻した上で少し間を置き話し合いに臨む事などを提案させて頂くものですが…
そんな状況にある方に私はよく言わせて頂く言葉があります。
それは…
「相手も自由なら私も自由だ!」
と言うものです。これを相手を呪う気持ちが起きる度に鏡の前の自分に向かって何十回(何百回)となくアファメーションする様にすすめるもので、これをするだけで相手との状況に於いて「縛りを生じさせていたのが他ならぬ自分自身」である事に気付かれる方も多いものです。
(全ての人間関係に適用出来る)
話の冒頭に戻りますが、LINEの既読疲れやフェイスブックのいいねや人が投稿する友人の写る写真など、明るい気持ちで眺める事が出来れば良いものですが、絵に描いた様なポジティブシンカーなら話は別でしょうが(笑)その時々の気持ちのあり様で、ブロックするものを感じたり、認め難いものを感じたりするのも人間で、またそんな事を恥じる必要は全くないのです。
フェイスブックにしても主体と客体からなる二元のシステムに違いなく、人間の自己承認欲求を逆手に取ったネットワークである事はとうの昔に言及されている事でもあり、言い換えるなら、エゴの軒下三寸借り受けて楽しませてもらっている程度の認識でちょうど良いもので、エゴのあるところ常に価値判断やジャッジ、裁き、区別や差別、羨望や嫉妬や対立と言う副産物もつきものである事を理解していればそれなりに楽しめ様と言うものです。
たとえばフェイスブックでエゴが投げつけくるパターンとして…私がヒーリングで病気の方を癒した記事などを投稿した直後などに、他のヒーラーから「病気を癒す必要はない」的な記事を目にする場合など、私も透視ヒーリングを行うヒーラーでもあるので、私に意図されたものがあればその様に伝わってくる場合があります。
こんな時昔の私であれば…
「コラッ、当て付けがましい事書くなバカタレ!何か文句でもあるならいつでも電話でもかけて来やがれ!」と言うところでしょうが(笑)
悪意は無くとも身近な人の記事を参考に「それは違う!」とばかりに抗う様に書くのも人のさがと言うものであり、
また自分自身の中から投影され目撃しているものとして、さっさと自己の中で浄化しクリーニングしてしまうのが常でもあります。
「友達の整理をする」云々とはよくフェイスブックで見かける投稿ではありますが、友達が定員になってしまい交流の無い方から整理している場合をお見受け出来る時もあれば、さして友達の数が多くないにも関わらず、繰り返し「友達整理させて頂きます」「この記事にいいねしてくれない人は削除します」的な投稿を見かける時など、私から見るとその方が何か報われていないものを感じている様に思え「何でいいねしてくれないの!私ここにいるのよ!」と叫びを上げている様に痛々しく映る時があるものです。
私などもある時、交流の無い方を整理削除しようと思った時がありましたが、そんな矢先、何年もいいねやコメントの無い方から「いつも楽しみにアメブロを拝読させて頂いております」から始まるセッション申し込みのメッセージなどが入り、少しばかり自分が狭量に思え恥じたものです。
勿論、全てがこの限りではありませんが、フェイスブックに於ける友達の整理や削除なども実のところ何を基準とするのか曖昧模糊なところもあるのではないでしょうか。
いいね一つとってもその人なりのスタンスと言うものはあって良いと思います。
フェイスブックと云う一つの枠組みに入ると嫌が上でもいいねをつけなければならない都合を発生させやすいもので、書き込みや投稿が先なのか?それともいいねが主なのか?記事を上げずに他の方のタイムラインを訪問しいいねをつけるのが楽しみな方は別としても、とかく本末転倒になりやすい傾向と言うものもそこにはあるのかも知れません。集客諸々、PRや営業形態の一端に組み込まれるフェイスブックやLINEの現在でもあり、それだけにいいね一つとっても執着や画像(葛藤)を発生させやすい代物で、一つも二つも重要と思うハードルを下げて投稿を楽しむ事が肝要な様です。
密(親密)でいるばかりが友では無い事…
いいねがつかずとも友の絆はあるはずです。久しぶりに会っても「よう、やあ!」で会えるのも友の基準と言うものかも知れません。
どうぞ、フェイスブックでいいねゾンビになりそうな時は(笑)「相手も自由なら私も自由だ!」と鏡に映る自分に宣言してあげてください。
合掌