☆「なんたらの因果」…ある土地成金の女性の顛末にみる幸せの在り方

 

愚かな人は、「私には息子がいる」
「私には財産がある」などと言ってそれで思い悩むが、
自分自身がそもそも自分のものではない。
ましてやどうして、息子が自分のものであろうか。
財産が自分のものであったりしようか。
 
釈尊の言葉「ダンマパダ」62
 
 
私はこの釈迦の言葉を読むと、極道当時に関わったさる大地主の家系に生まれた女性の姿を思い出すものです。東京西部さる地域の大地主の娘として生まれ、広大な土地を相続したものの、膨大な相続税を払う事が出来ぬ為にその殆どを物納し、さらには事業の失敗などで膨大な借金を背負い残りの土地も売り払い、最後残った小さな土地に焼き鳥屋を建てて夫婦で営んでいたものです。
 
金になると聞けば、詐欺師同様の地面師やブローカーが持ち回る眉唾な話しに湯水の様に金を注ぎ込んで破綻に等しいところへ追い込まれたこの女性でしたが、救われていたのは夫である男性がこれまた対象的な寡黙な真面目人間で、どちらかと言えば破天荒な妻を内助の功でカバーしている様に見え、夫婦の器と中身が逆転しているかの様に当時の私には見えたものでした。
 
この女性ある時呟く様に…
 
「子供の頃から蝶よ花よと何一つ不自由なく育てられてワガママのやりっ放しの人生だったけど、
 
結局ご先祖様からの土地も私の代で終わり…
 
でもね言い訳するわけじゃないけれど、今の国のシステムだったらどんな大地主だって三代も続かぬ内に税金であらかた物納させられて土地を召し上げられちゃうのがオチってもんじゃないかしら…
 
でも、これも私の業、〃仏教のなんたらの因果〃って言うけど、形あるものなんて結局は何も残らないって、自分の人生で証明しちゃった様なもんねアタシ…」と自嘲する様な笑みを浮かべて語るこの女性でしたが、
 
「仏教のなんたらの因果」とは因果応報を言いたいのであろう事は当時極道だった私にも分かるものがありましたが、昭和の女優岸惠子似のその風貌に、苦労知らずのお嬢さん育ちを伺わせるものがありながらも、べらんめえ調なその話し方、自らを儚む様なそのたとえが内心おかしくもあった私でもありました。
 
そんなこの女性を細い目で優しく見守るこの女性の夫が、やんちゃな娘を見守る親の姿の様でもあり、夫婦の妙、天の配剤を感じずにはいられないものがあり…この女性の借金から生じた極道や債権者の追い込みからガードする役割で関わった私でしたが、借金の整理が終わればお役ご免でその後この夫婦と会う事はありませんでした。
 
でも、私は思ったものです。この女性は先祖代々からの土地を失い破綻したかの様ではあるけども、焼き鳥屋を夫婦で営む事に終の棲家を見つけたのではないのかと…?
 
遠くから見ると何かマッチ箱の様な粗末な焼き鳥屋なれど、赤提灯の下がるその脇、焼き鳥で煙る窓からは、今こそ心の安寧を手にしたこの夫婦の淡々とした喜びが感じられる様でもありました。
 
でも、当時は私も人を泣かせてメシを食べる極道世界の住人で、幸せだとか心の平安などと言えば自らが弱くなる様でもあり、そうした人の暖かさや人情の機微からもあえて目を背け戒める様なところもあったものですが、実際は見栄や虚勢、金銭や欲得、所有に走る人間のハードな転落、末路、生きた人間が見せる諸行無常を目の当たりにする事も多く、それに対比する様に関わる人の姿にどん底にある人間の小さな幸せや暖かさや再生の息吹きをそこに見る事も多く、見栄と虚勢、刹那的に生きるヤクザには将来の生活設計など成り立たぬ事を知りながら、かたやでは裸電球一個が照らす小さな卓袱台を囲む暖かさや情の交流、安心と言うものを望郷の念の様に憧れ持ち続けていたと言うのも偽らざる当時の心境だったのかも知れません。
 
                        合掌
 

 

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