☆正仙の愛説法…赦しを説けぬ未消化なスピリチュアルに気付け!

 

 
「今この瞬間、この時に生きる」という言葉は、スピリチュアルな世界で語られる名言でもありますが、この言葉というものも、自己実現とか、今目の前にある楽しみに没頭するかの様な時の心構えとしての解釈として用いられる場合も多い様です。
 
でも、私はいつからしかこの言葉が人として生きて行く上で、時には突如として投げつけられるかの様に、ある時は長きに渡ってじんわり現れる人の影を伴う「赦しのレッスン」に向き合う言葉の様に思える様になったものです。
 
人間は年と共に、人生に於いて楽しさ一辺倒、また勝ち続ける事が不可能である事は否応なく思い知らされるものです。
 
でも、私達人間はエゴ(自我)に「肉体こそが全て」と日頃より洗脳されているものであり、自らが覚醒したと自認する様な人間でさえも、ワクワク感や宇宙の神秘やその働き、私達の生きる地球村を楽園として見る事ばかりに目を向けられる事必定であり、その反面、枯れる事、朽ちて行く恐れをひっ隠して、内心ではゴクリと固唾を飲んでいるスピリチュアルな世界の住人も多いのかも知れません。
 
そうした影響もあってか、日本のスピリチュアルはわりと二元の神のスタイルに寛容であり、天変地異から災害、戦争や虐殺、病気から事故に至るまで、神がそこに何らかのメッセージ性を湛えて微笑み介在しているかの様な解釈が好まれたりもします。
 
でも、かつては極道の世界にいた私などは、裏の裏まで腹を探り合う様な駆け引きの応酬から、アメとムチの使い分け、握手と恐喝、金と鉛(銃弾)、あらゆる深謀遠慮のパターン、笑顔の裏にある暴力のパターンを自身の中にも周りにも見てきたものであり、そんな油断ならぬ神や仏ならば、反社(反社会的)と確信犯的なアウトレイジな世界の人間の方がよっぽど潔いと思った時があるものです。
(スピリチュアルに足を踏み入れた時期など特に)
 
鳴り物入りで日本を訪れるスピリチュアルな世界の外国人講師であろうと、日本のスピリチュアルな教師であろうと、「引き寄せの法則」や「豊かさの追及」「自己実現」など肉体を持つ人間の生に於いてワクワク感や楽しさを享受する事を「集客の上でも」話のモティベートとして前面に打ち出して行かなければならず、講演、著書などにもこれが反映されている事、スピリチュアルと言えども、出版社や営利上の都合が優先されている事など、多くの人が気付く時代にもなってきた様です。
 
それに比べて…
 
「世界は無い」
 
「宇宙は無い」
 
「他者は存在しない」
 
と、この私達の生きる娑婆(シャバ・この世界)が私達が作り上げた幻想であると喝破する「奇跡のコース」や「神の使者」に始まるゲイリー・R・レナードの著者などは「非二元の神」の立場を取るものであり、日本ではまだまだ受け取り難い風潮もある様です。
 
※「奇跡のコース」とはイエス・キリストから来たとされるインスピレーションをヘレン・シャックマン助教授(医療心理学 アメリカ・ニューヨーク州コロンビア大学)が文章化し、ウィリアム・セットフォード教授(臨床心理学 同大学)が編集、ケネス・ワプニック博士(児童心理学)が校正。3人が専門としていたフロイト派心理学のフレームワークが反映されており、エゴを、人類が共有するひとつの#心が患った根源的精神疾患と捉え、これを治癒する心理療法的アプローチとして赦しの効用を説く(Webより一部引用)
 
「この世界が幻想」とか「赦し」と言うと、無責任で受け身一辺倒で人間に感情がある事を無視するかの様に思う人も多いかも知れません。勿論、自らの感情を知る事は大切ですが、そんな怒りや葛藤を感じる相手も自らが招請したイメージである事、無意識下から自らの罪悪感を解消する為にそうした事を経験として浮上させている事に気付かない内は、小手先の感情解消法を学んでも、この世界では堂々巡りを繰り返す事必至の様です。
 
血の通った人様をつかまえて幻想だとか、イメージだとかいうのは、人の尊厳を軽んじている様に思われる方もいるかも知れませんが、それも個々の肉体やパースナリテイが確立されていると言う考えに沿ったものであり、これがその時の状況によって愛したり攻撃したり差別や優遇などの人間ドラマの不確定要素としてその根っこにある様です。
(勿論、感情のままに生きて死ぬのも人の一生であり、自由意思に任されてはいますが…)
 
仏教で言われる因果応報、善因善果、悪因悪果の理(ことわり)を知る人も、どこかしら生活訓的な部分的な捉え方をしていたりするものですが、実はこれは常住坐臥、全方位に向けられたものであり、簡単に言うと「他者にする事は自分にする事」を説いているものであり、こうした意味からも本当は「他者などいない」「境界などない」事を現している事とも言えそうです。こうした事から考えても、「他者と見える自分が招請したイメージ」は自分自身でもあり、軽んじるどころかブーメランの様に相手にした事が返ってくるとすれば、優しくならざるを得ないのではないでしょうか?
 
下記の文章はゲイリー・R・レナード著「愛は誰も忘れていない」よりの引用です。文中の【アーテン】とはゲイリーの元に現れたアセンデッドマスターの事です。
 
※アセンデッドマスターとはイエス・キリストや釈迦に代表されるもので、過去に人間として地上で生活をした後、天界にて神の視点から私達人間をサポートする存在。
 
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【ゲイリー】
 
霊性に興味のある人は大抵、肉体が死んだあとは死後の世界へ行くと思っている。
 
そこで来世で何をどう行うか決めて契約し、誓いをすると考えられているけど、そうではないんだ!
 
そういう一生はすでに終わっている。彼らがしているのは、撮影済みの映画をもう一度体験しているようなものなんだ。死後の世界と呼ばれるものは現に、ある生と生のあいだにあるが、そこは、すでに詳細が確定済みの夢の今世と、同じくすでに詳細が確定済みの来世のあいだにすごす時期のことだ。
 
そのような夢の生にある自由や自由意思というのは、すべてにおいてエゴの代わりに聖霊の解釈を選ぶ力のことを指す。聖霊の解釈を選んでほんとうの癒しを達成できるかどうかで、死後の世界の本質的な体験も、来世でどんな一生を送るかも決まるんだ!
 
※聖霊(ホーリースピリット・ハイアーセルフ)内なる神、高次の自分とも言われ、私達人間の過去生、未来生、カルマなど全てを統括し、サポートを続ける誰しにもある真のガーディアンエンジェル(守護天使)の様な存在(宗教とは関係無し)
 
だからこそ赦しの実践を送らせないことが重要だ。来年まで遅らせてはいけないし、来世まで待ってはいけない。きみの未來はきみによってたったいま決められているんだ。
それは見るものに対して聖霊の解釈を選ぶか、それともエゴの解釈を選ぶかというきみの選択にかかっている。
 
もしほかの生涯を見わたせるのなら、夢である来世は線型的配列と同じ順番ではないかもしれない。きみが経験する来世は、いまから五百年前か千年前か百年後に起きたようにみえるものかもしれないが、それは関係ない。その一生の本質と、どの赦しのレッスンをすることになるかは、いま目の前にもたらされた赦しの機会をきちんと学んだかどうかで決まる。
 
だから、どんな日でも与えられたレッスンを活かしていくことがきわめて大切だ。そのレッスンこそが、聖霊がきみに学んでもらいたいと思っているものなんだ。それらを学ぶなら、つまり結果でなく原因に根ざす真の赦しを行うならば、夢である来世で同じパターンを繰り返さずに済むだろう。そして、さらなる進歩を遂げられるところへ進んで行けるだろう。
 
もしかするとすべての赦しのレッスンを完了し、わが家へ戻ることになるかもしれない。もちろん、今世でそうすることだって可能だ。それは現れるものすべてを献身的に赦せるかどうかにかかっている。
 
「コース」ではこう述べている。これは、今世にもどの世にも当てはまる。
 
試練とは、学び損ねたレッスンがもう一度現れているにすぎない。したがって、以前、誤った選択をしたところで、あなたはいま、よりよい選択ができるゆえ、以前の選択がもたらしたあらゆる苦痛から逃れられるのである。
 
【著者・ゲイリー】
 
じゃあ、目の前にもたらされた赦しのレッスンを学び損ねたとしよう。
この引用はそのレッスンがもう一度やって来ると言ってるけど、ぼくはそのレッスンが必ずしもまったく同じかたちでやって来るとは思わない。同等な課題になるような似た出来事、状況、あるいは人間関係の可能性もある。
 
【アーテン】
 
そのとおりだ。明らかに、いまから百年後に現れるレッスンが、必ずしもいまのレッスンとまったく同じには見えないだろう。
 
かたちは変化するが、意味や中身は変わらない。
 
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                  合掌
 
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