ある時、私の元を訪れたお客様が、セッションを終えた後、余談の中で…
「スピリチュアルって言うけどさ、何の実体もない事にエネルギー注いで一体何になるの?
そんな事よりもあなたテレビとか新聞見てるの?
今の日本の状況とか、政治とか、自然破壊とか、貧困とか、この先の日本の為に自分が何が出来るだろうかとか、声を上げて何が出来るか少し考えたらいいんじゃないの?
あたしから見たらスピリチュアルって現実逃避にしか見えないし、まったく理解できない、正直。病んでいる人達の傷のなめあいにしか見えないわ、〇〇さんやあなたのやっている事ってさ、あっ、ゴメンナサイね、言い過ぎたかしら…」と、知人から矢継ぎ早にスピリチュアルから自分自身をも否定される様に一気呵成に言われた事を話してくださったものです。
友人を介して最近知り合ったばかりの女性より、あるデモへの参加を誘われた事を断った途端に化学反応を起こす様に上記の言葉を言われたそうで、この方もヒーリングやスピリチュアルカウンセリングを行うヒーラーさんでもあるのですが、頭ごなしに強く否定されると、自尊心が傷つくばかりでなく、本当に否定される言葉そのままに自分が劣った存在でもあるかの様に自らを不当化の想いで満たしてしまうのも人間なのです。
酔うことなかれ…
それが戦争反対のデモであろうと、何らかの法案に反対する行進であろうと、平和や愛を連呼している内に、自分とは違うグループや思想や信念、ライフスタイルを異なる人達に微妙なジャッジを生じさせ、自分ばかりが選ばれし平和の戦士にでもなったかの様な幻想に眩惑されてしまいやすいのも人間なのです。
これはスピリチュアルな分野に生きる人々からそうでない人達に向けても、宗教各派による教義の違いなどから派生する誹謗中傷などにも見られる宗教間の争いにも見られる原型であり、微妙なジャッジから対立争闘へ向けてスパークさせる「振り子の法則」は、人間の信じる思想や信条、神仏の教えのあるところでさえ、人の集まるところに発生する強力なエゴの磁場でもあるのです。
これこそ戦争と言う途方もないエゴの根っこ、発端にある事を忘れたくないものです。
ナチスドイツも第3帝国などと、選ばれし者と言う様な特別性の幻想を強大に突出させた歴史の教訓でもあるはずです。
平和運動でもスピリチュアルでも「自分はしたいからしているんだ」と、ただこれだけで良いはずです。自分のしている事に疼きがないなら、人を比べて攻撃する必要もないはずで、「エゴは自らの正当性を追認する為に常に攻撃する対象を作り出す」ものであり、平和とか愛の名目の元に活動しているからと言ってエゴの影響から免罪符が出でいるわけではないのです。
あまのじゃくな私などは選挙に投票ぐらいは行くものの、あまり政治に期待するものがありません。
どこまで行っても政治屋によるゼロサムゲームな政治が繰り返されているものを感じるばかりで…
石原前都知事と小池現都知事のやり取りなどを見ても、問題の複雑さよりも、少年院でのヒッツキ(イジメ)集会と呼ばれた集団でのカウンセリング、または、子供のホームルームでの吊し上げのやりっこの様で、ペナルティを喰らうのはゴメンだと、狐と狸のバカし合いの様にしか映らず、気持ちの上でどちらに組するものでもないのです。
戦争から井戸端会議の人の悪口に至るまで、そこにあるのは程度や深浅の差こそあれ、共通の鋳型がある事、表の出来事をいじくり回すよりも、自らの内から平和への思いを糺す事などを伝えて行く事も、私なりの平和運動かなと思ったりもする愚僧であります。
合掌
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