この本に書かれた曽野綾子さんの綺麗事ではない、人や人生を見つめる視点にとても共感出来るものがあります。
いつだったか…渡辺和子さんの書かれた「置かれた場所で咲きなさい」と言う良書を紹介した時がありましたが、この本も、苦しみや老いや病の渦中にある人なども読まれたらきっと安心を見出だせる内容です。
また、いたずらにスピリチュアルに足を踏み入れ、出口の無い現実逃避のスパイラルに入ってしまっていると感じている人なども、苦しみや困難あっての人の生きる娑婆である事を受け止めた上でのスピリチュアルである事を理解する上で、本書を読まれるのも良いかもしれません。
下記本書より引用
「ステキな夫婦」は危ない
「お前くらいどっしり太ると、安定がよくていい。おい太郎、嵐の日に出歩くときは、母さんの後を歩きなさい」
デブだということは悲しいが、しかしそれが実用的であれば、女は満足してしまう。こういう言い方のできる夫婦は、まず家庭が明るい。私のみるところでは、ステキな夫婦はどこか危機感をはらんでいる。滑稽な夫婦は安定がいい。滑稽というのは弱点がむき出しにされることで、その弱点を愛してしまったら、他にどんな立派なきれいな女、二枚目の男が現れようとも、夫婦はめったなことでは心をうつされないのである。
しかし美しいから、立派だから、働きがあるから愛するのだったら、年老いたり、弱みをみせたり、病気になったりすれば夫婦は相手を捨てることになる。それをうすうす感じている夫婦は、表面仲良さそうに見えてもどこか暗い。
『愛に気づく生き方』
長男夫婦と住んでいれば、長男の嫁はずうっと責任を持って義母を見ているんですから、そんなに愛想もよくできないわけ。姑が何を言っても「そこにあるでしょ」なんて言うようになるのよ。
そこに、たまに次男の嫁が来て「お母様お元気でらっしゃいますか、この間お風邪の時心配いたしました」と言って、おいしいものを持って来て、三時間ぐらい愛想を振りまいて帰っていくわけでしょう。
ほんとに次男の嫁はよくできていて、と言うけど、次男の嫁は決してその親を引き受けないわけですよ。そういうことを見抜くだけの賢さは要りますね。一番大変なことをしているのは、その人を引き受けて捨てないということですからね、姑の場合でも、夫の場合でも。
合掌