※潮音山 太江寺
今月16日、伊勢二見太江寺で行われた新垣和彦さんの得度式に職衆(しきしゅう)の一人として立ち会ってまいりました。
※以下新垣和彦さんの法名玄龍(げんりゅう)にて名前を表記
※職衆とは、導師と共に法要や儀式を執り行う僧侶の事です。
※戒師、永田密山住職より真言僧として生きる決意を問うかの様に発せられた「よく保つや否や」の言葉にも「よく保つ!」と淀みなく答える玄龍氏の声が堂内に響き渡りました。
数年前、玄龍さんはブログより私にメッセージをくれたもので、そこには「私は現役の極道ですが、陰ながら応援しています。」と書かれていたのでした。
ブログを拝見すると、沖縄の地に勢力を誇る極道組織に身を置く方で、自らも組織を率いる組長でもありました。
私より歳は若い方でもありましたが、この方のアメブロの記事を拝見すると、文才があり、反骨の気概もあり、人権の問題などにも精通しており、文章からも非凡なる論客である事が窺えたものです。
極道でありながら禅をこよなく愛すると言うこの方に、この時すでに禅僧の風貌が私には見て取れた様な気がしたものです。
しかしながら、玄龍さんはその時は現役の極道渡世の人間でもあり、その後、親しく交流してきたわけではありませんでした。
でも、時折この方の書く記事は読んでおり、いつの日かベストなタイミングで会うであろうと言う予感めいたものがあったのも事実です。
※太江寺御本尊、千手観音です。鎌倉時代制作、重要文化財指定
すると、ある時からこの方の記事に『仏』の文字が盛んに現れる様になったもので…
私はそれを目にした時「いつかこの方も…」と心に思う事があったものです。
私が極道当時、その道の先人は私に言ったものです。
「ええか…ヤクザはの、殊勝な事なんか考えたらあかんのや。」と…
極道の世界の親分、子分、兄弟分の契りを交わす盃事(さかずきごと)と言うものも、会場の中央には天照大御神の軸装を掲げ、供物を捧げ、神道の儀式を思わせる媒酌人の口上など、厳かな雰囲気の元に進められますが、かと言って、そこに真摯な信心や信仰が必要な訳ではありません。
極道にとっての宗教観とは、葬式は仏教、初詣は神社と言う様な、一般の人間の感覚と同じで充分に違いないと当時の私は思ったものです。
極道の世界自体が、ヤクザ教とも言える一般社会から隔絶された世界であり…
白いものでも黒と言われれば黒と信じ、親分を神とも親とも崇め、忠誠を誓わなければならぬ世界で、神や仏に気もそぞろに浮気をする様な人間は信用に値しない、そんな価値観を持つ世界でさえあった様な気がします。
それに「なんだよおい、仏心ついてあんたそれで極道出来るのかよ?神だの仏だの言って、あんたいざとなったら組織の為にカラダ張れるのか?人を泣かせてメシだって食べて行かなきゃならない世界なのに、あんたは後ろに隠れて念仏でも唱えているつもりか?」と言う様な、恐れに似た皮肉な視点と言うものもそこにはあり、
神仏の事などを迂闊に語れば「こいつ宗教ボケしていやがるな?」と心の弱さを露呈し、値踏みされる様で、実際は信心深いものがあっても、神仏には無関心を装い、せいぜい「初詣で○○神社に行ったら馬券当たったわ!ご利益あるらしいわ、あの神社、アハハ!」と言う様な博打運に揶揄した話しに終わるのが関の山なのかも知れません。
現に私などもその世界にいる当時、私の事務所を訪ねてきた新興教団の活動に傾斜し始めた企業舎弟の目を見据えながら…
「俺は宗教の事はわからんが、お前、神に手を合わせているせいか、すっかりおだやかで綺麗な目になったじゃねえか?もうすっかりカタギの目だな…お前、神に手を合わせてかたやで悪さしてメシは食べていけないだろう?ここはお前の来るところじゃねえよ、二度と来るな!」と諭した時があったものです。
※戒師より如法衣(にょほうえ)を手渡され、新垣和彦氏が、僧、玄龍として生まれ変わった瞬間です。
玄龍さんは、若き日より身を置いた極道の世界より離れる決意を固めた旨、簡潔な文章ながらメッセージで伝えてきてくれました。
この方のブログタイトルはそれまで堂々と『極道』から始まるものでしたが、ある時よりその頭に『元』と言う文字が付き、『元極道の仏道修行、求道者』と言うタイトルに置き変わったのでした。
文章にすれば僅か数行の事でも、これがどれ程勇気のいる事か私にはよくわかります。
時には寂しくもあり、向かい風の強さを感じたり、はぐれ者にとって暖かくもあり、冷たくもあった極道の世界に郷愁を感じたりと、私自身を振り返って見ても、僧侶ヒーラーとして活動する今に至るまでには色んな心情過程があった様な気がします。
玄龍さんは、極道に成る前は、政治結社(右翼団体)の代表を務めた事もあれば、実業の世界で成功を収めたり、市民オンブズマンとしても活躍していた時期などもある事からか…人に対しての見方にも確立されたものがあり、まだ堅気に転身して間もないにも関わらず、話していて、極道の世界にいた『垢』と言うものを殆んど感じさせない方でもあり、やはりそこには極道当時より、禅や瞑想を愛してきたと言う事も大きな要因としてあるのかも知れません。
お寺に入った修行当初から、受け身一方でいる事をこのまず、チャクラ別に発声を用いた独自の瞑想法を開発するなど、今後の活躍が本当に楽しみな方でもあります。
元極道同士が、お寺のご縁で繋がる宿世の人の縁の摩訶
不思議と言うもの…
得度式を終えてよりしみじみと語り合った二人でした。
今年に入り、仏縁や人と人とのご縁を結ぶお役目を授かっているものを感じる事の多い私ですが…
私と同じ道を歩む人の姿に感慨無量なものを感じた愚僧であります。
合掌