今日、ある方よりメールが届きました。
大手術の後、一ヶ月以上に及ぶ入院を経て退院されたとの事…
そこには今回の病気を通し、人生観が変わってしまい、『生きているだけで丸儲け』と本当に思える様になった事などが綴られていました。
たとえ、メールの文章と言えども、体験に裏打ちされたものは、読み手の心を揺さぶるものがあるものです。
私達人間は、その時々、自分に必要な気付きをもたらすかの様な、人や様々な教えや本に巡りあう時があります。
そうした事に生きる力を得た様な喜びを感じたり、明るい兆しを見出だしたりする私達でもあります。
しかし…いつかしら、そうした気付きも、日常の中に埋没させてしまうのも私達人間…
それはさながら、ひと時の処方しかもたらさぬ薬を繰り返し自分に擦り込むかの様でもあります。
先人の言葉に『大病、投獄、大破産を経験したものでなければ大成出来ぬ。』と言う究極の格言があります。
今の時代にはマッチせぬかの様な、アナログな言葉かも知れませんが…
しかしながら、こうしたどうしようもない痛みを経験し、その痛みを癒し、手放して行く過程にこそ、本や、その時々の自分の都合で、取り込んでみたり、投げ捨ててみたりする教えなどとは全く違う、深い気付きや人間として生きる事の深淵さが刻まれる事もあるのだと思います。
頑固で、周囲と抗う事ばかりしていた人が、大病をした後で、その愚を悟るかの様に、家族や周囲の方達と和解し、たとえ残り少ない余生でも、笑顔と感謝の内に黄泉に旅立っていかれる時…
その人にとっての気付きは遅すぎるのでしょうか…?
『何を至福とするのか?』
『何を豊かさとするのか?』
こうした尺度は、人や世間ではなく、自分の心の眼に預けられている事…そうした意味において、人それぞれに訪れる気付きのタイミングは完璧なものがあり…
遅すぎるなどと言う事は決して無い事、感じる事の多い今日この頃…こうした事にもテーマを置いた昨日の講話会でもありましたが…
そう言う意味では、病気と言うものさえも、本人や関わる人々が何かに気付き、何かを思い出す為に、完璧に魂レベルで招請している事の様な気がします。
病気や失意を経験し、自分の弱さを知る事が、やがてそれ以上の内面の至福や豊かさを知る大きな機縁となる事もある人間の生涯でもあります。
メールを下さった女性は、観音の姿を愛された方でもありました。
今日17日は奇しくも観音様のご縁日…
壇上にて、この方の一日も早い御回復をお祈りするばかりです。
合掌