※写真は文中とは関係ありません。
昨年10月に滋賀県の中学生がマンションから飛び降り自殺した問題で、その背景にあったイジメが…今大きく議論を呼んでいる事でもあります。
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今朝の新聞などにも、滋賀県警が中学校を捜索した事が報じられていましたが、イジメをした側の生徒達も、いずれは逮捕の上、教護院や少年院に送られるのでしょうが…それで亡くなった子供が帰ってくるわけでもなく…この生徒のご両親の怒りや悲しみや絶望の混濁された感情をそこに感じるばかりでもあります…。
亡くなった子供の親は、我が子の自殺の背景にイジメがあった事を察知してか…何度も所轄警察署に『処罰して欲しい!』と被害届を出そうとしていた様ですが…
『悪事は千里を走る』と言う諺がありますが、例えそこに表面上は、事件性の見られない死であっても、故人と親しい人間や、エネルギー上も綿密な繋がりを持つ親や子供や配偶者が、まるでデジャヴ(既知感)の様な感覚で、その死に不審がある事を『推察するのではなく』身体の深いところ、言いかえれば魂レベルで瞬時に理解してしまう事も多い様です。
虫の知らせと言うのも、そうした形のひとつでもあり、親や親しい方の死に際などに体験された事のある方も多いのではないでしょうか?
天下の公僕と言われる警察も、手続き重視のお役所体質の一面もあり、一度自殺として解決処理済みの事件を再び、イジメがらみの事件として再捜査する事は、ある面、初動捜査のミスを認める事でもあり、腰をあげざる事容易ならぬ事は、想像出来る事でもあります。
こうした事件に於て、とかく警察の対応の遅さが批判される事でもありますが、そこは学校での事、自殺以前に暴行や恐喝や脅迫等、事件として立件出来る内容で親や学校側から被害届が出されていたなら警察の介入も早かったかも知れませんが…
推定無罪、疑わしきは罰せずの日本の司法体系で動く警察は、このイジメの問題だけでなく、全てにおいて、形ある事件を成す以前の『グレーの段階』では動こうとしない現実があります。
世間一般の方で『警察は学校などでイジメなどの不穏な雰囲気あれば、介入し調停したり矯正したりするもの』と誤解されている方も多い様ですが、この言い方、適当ではないかも知れませんが『たかだか学校のイジメくらいで、学校に駆け付けたり、教室の入口で張り番するほど俺たちゃヒマじゃねえんだ!』と言うのが、警察官の偽らざる心境なのかも知れません…。
(`Д´))
対テロや明らかな危険性を帯びた事例など、水面下で動き対応する事はあっても、110番通報があり、被害届を明確に出さなければ警察は基本的に動かない事は学校に対しても同じでもあります。
イジメの問題と言うのは、発覚した事件、最終結末ばかりが取り沙汰される傾向がありますが、そこに至るまでの『グレーの部分の時期』周囲が薄々イジメがある事を黙認していた『穏やかならぬ雰囲気』のまさにその時期に闇があり、そこに問題の根があるのではないでしょうか?
学校に交番でもあり、授業中といわず、休み時間といわず、警察官が睨みを利かしていれば、学校でのイジメは減少するかも知れませんが、これが現実味を帯びた話しなのか?は読者の皆さんならご判断頂ける事と思います。
(`_´)ゞケイサツデアリマス
そこに学校側の体裁と言うものも大きな要因を成している場合も多い様で…イジメが軽度の時期に、イジメに気付いた両親の訴えを『まあまあ…お母さん、学校としても十二分な対応をさせて頂きますので…事を荒立てずにお願いします。』などと、やんわりいなしておきながら…
それはまるでスポーツ選手の試合時に見られる審判が選手に与える注意や違反勧告の様な形式的と言わざるを得ない指導の在り方で、問題の生徒に対応する事が…
後日、それこそ世論を騒がす手の付け様のない事件として発覚した時に、『学校側としても問題の生徒に対しては厳重な対応をしてきた』などと言う言葉にすりかえられている様な気がしてなりません…。
先生とは名ばかり…明日の日本を担う子供を育成する聖職者としてのプライドを持てぬと言うより、持つ事を許されぬ平成の教育現場でもあります。
イジメ以前の問題が、現在の学校や教育のシステムにも、学校の教師と生徒の間にも、親と子供との関係にも、子供同士の関係にも、しっかり横たわっているものを感じている方も多いはず…
端的に子供同士のイジメと見ている内は、何一つ解決しない様な気がします。
イジメに直接的に荷担せずとも傍観者の立場を取る子供も、ともにそうしたイジメを創造してしまっている事…
喉元過ぎればなんとやらで…強い者に巻かれろとばかりに、友達や同級生に対する一部生徒からの執拗なイジメやリンチ、そうしたものを見ておきながら
『何もする事の出来なかった自分…』
『目の前でやり過ごしホッとしていた自分…』
『イジメにあっていた生徒に、まるで何もなかった様に友達ヅラしてその後も接していた自分…』
程度の大小や深浅はそこにあるかも知れませんが、友達がイジメられていたその画像は、自らのオーラに刻まれ、その後の人生に於いて悉く顔を覗かせる時がある事…
成人し、会社や組織に属した時に、不条理な上司の叱責や、要求にうちひしがれる同僚の姿や、また自らの姿にそれを見るのかも知れません…
勤めだしたパートの職場で、一生懸命働いているにも関わらず、仲間外れにされたり、無視されたりする事にそれは投影されているのかも知れません…。
例え子供の頃の嫌な記憶、蓋をしたい忌み嫌う記憶であっても、魂はしっかりと記憶していて、世渡りや世間的な処世術の様な考え方で割り切りを付け、そうした事に目を背けている内は、繰り返し繰り返し、そうした事が角度や色合いを変えてでも、人生上に現れる事…
私達が『カルマ』と呼ぶ出来事は、実はこんな身近にわかりやすい形で浮上している場合が多かったりもします。
こうした過去の体験画像と言うものが、拒絶や不安や恐れなどの特定のパターンをつくり出
してしまう事…自らの潜在意識をクリーニングするスキルや、瞑想をする人が増えているのも、こうした事に気付き始めている方が増えている事にも一因があるのかも知れません…。
イジメにおいて傍観者の立場を取る事が罪や悪と言う決めつけではなくとも、共に創造している事を教える事の大切さ…
何故なら…傍観者の子供にも、その時刻みつけられたものが、後の人生において様々な影響を及ぼすからであり、魂は自ら感じたトラウマの解消を、必ず人生の何処かの部分で(時期)あがない求めるに違いないと私は思っています。
余談ですが…私なども、こうしたイジメの記事や報道を見る度に、学校に対するソーシャルワーカーなり、非常勤講師として活動したい想いに駆られる時があります。
今の子供達は、誰が悪くて良いのか?わかりづらいものがあるそうで、イジメなども自分に咎めが及ばない様にフェイクする技術も巧みだとある学校の教壇に立つ方がいっておられましたが…
(((;゚д゚)))
少しの月日を頂けば、誰がクラスを牛耳っているのか?誰が他の生徒にイジメをしているのか?奢るわけではありませんが、今時の先生よりは見抜く目は持っている様な気もするのですが…笑
生徒に手をあげる事はなくとも…イジメが発覚した日には『コラーッ!』と多少のドハッパは出てしまうやも知れず…
(-_-メ)
これでは、私の方が三日で退校処分になるのが関の山でしょうか?笑
(´゚艸゚)∵
合掌