今月15~16日、人気ブロガー、スピリチュアルカウンセラーKUVERAさんの嬉しいお声掛けの元に山形県米沢市に出張セッションに行ってまいりました。
初日は講話会
※グラウンディングを解説しています。
講話会に参加された方を目の前にして「グラウンディングと言う言葉を知っていらっしゃる方がいましたら、手を上げて頂けますか?」と言うと…
殆どの方が知らないご様子…なかなか手が上がりません…。
((?_?))
ヒーラーやエネルギーワークをされている方ならいざ知らず、一般の方にとってはこれも無理からぬ事でもあります。
((-.-;))
地球の中心と繋がるグラウンディングと一言で片付けるのは簡単ですが、いたずらにスピリチュアルな世界の用語を並べて話すのではなく、わかりやすい言葉で話す事がとても大切な事を痛感する最近でもありますが…
この日は豊かさに至る思考のマジックとでも言うべきものにも言及し、自らが望む豊かさにグラウンディングがどの様に作用するのかと言う事も図解を交えて話したのでした。
男性で言うと仙骨の基底部、女性なら卵巣の間にある第一チャクラは、肉体の情報と共にグラウンディングの強弱、豊かさの創造にも密接な影響を及ぼすエネルギーセンターでもあります。
グラウンディングが弱いと心身の安定を欠きやすくなり、自分自身の望む豊かさを思う様に引き寄せる事が出来なくなる傾向がある様です。
建築物を例にとっても、基礎や土台がしっかりしていない建物が安定を欠き脆弱である事は言うまでもありません。
※KUVERAさんのスタッフミチコさんです。
錯綜する情報社会、目に見えるもの、耳に聞こえるものだけを頼りに生きていたのでは、
「何が真実なのか?」
「自分らしい生き方とは何なのか?」
まるで目隠しされている様な居心地の悪さや混沌としたものを日々感じている方も多いに違いありません…
「ぶれない生き方」と言う言葉はあっても、現実を生きて行く上でなかなか難しい事でもあり…それは神棚に手を合わせ、利己的に生きる自分がたまに神の存在に思いを馳せるがの如く…
出来ぬ生き方である前提で、現代に生きる私達は憧れているのかも知れません…。
こんな時に私達は他者の指し示す情報や価値観に左右されやすく…
「これが本当だ!」と思えば「あれも本当だ!」が現れ「あの人こそ真実を語り私に幸せを与えてくれる人だ!」と思えばたわいもなく縋り飛び付き…
「あの人こそ真の光り神を見せてくれる人だ!」と思えば卑屈になってでも隷属し、コントロールされる事に甘んじてしまい…物販、寄進と二段、三段構えの収奪システムに気づいた時には家族や財産の全てを失うと言うパターンも、新聞誌上を賑わす他人の絵空事でない事…
((。。;))
私は今までセッションでのカウンセリングを通して痛感して来た事でもありました。
世間一般、他人の同意する事がいつの間にか自分の同意する事でもあり、人を裁定する正義と言うものにさえ形を変えている場合も多い様です。
(勿論、その中には良い事もあるのですが…)
こうした状況では、日々自分の中を通過する情報や過去の否定的な体験から来るエネルギーにマインドが翻弄されてしまい、来る日も来る日も、他者の指し示す「鋳型」ばかりを追いかけ、自分と言う軸を持った生き方や考え方には辿り着けそうもありません…
(((;゚д゚)))
日々のニュースの中でさえ国を代表する政治家が聖人君子などではない事…
((o(*≧д≦)o))
TVで放映される番組や週刊誌や新聞の論調にも時に「意図された背景」がある事…
((゚m゚;))
神を翳し、多くの信者を集める宗教団体も、その瓦解のプロセスを見る時…欲得渦巻くそこに人間の欲望がある事、運営しているのは他ならぬ弱さも脆さも持った血の通う人間である事…
(=_=;)(^皿^)
私達は心のどこかで気付きながらも、ため息と共に目の前に見せられる現実に埋没して生きて行く事が宿命とさえ思い生きて行く生きものなのかも知れません…。
しかしながら、グラウンディングが日々の習慣となる時、地球に支えられている安心感と共に全ての物事に真贋を見極める直感力が覚醒されて行きます。
経験や出来事が自分を支配するのではなく、「経験や出来事から何を創造するのか?」と言う人生の主体が自分である方向へシフトして行き…
人間は見つめるものを実在させている事…
(不安や恐れ、喜びや貧困も)
自分の主人は自分である事…
自分の内なる声こそ最高の教師でありナビゲーションである事に気付き、また気付く出来事に頻繁に出会う事も多くなる様です。
(私の経験からも…)
グラウンディングとは豊かに生きる事を宇宙に宣言する事でもあります。
※KUVERAさんとのツーショット
!
※講話会に参加された皆さんと共に
講話会を終えた後は懇親会へ…美味しい米沢牛をご馳走になりました
KUVERAさんや皆さんとの楽しいひと時を過ごし宿に帰った愚僧でありました。
(つづく)