伊勢神宮から潮音山 太江寺へ①

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先日の記事の通り、急遽『思いたったが吉日』とばかりに急行バスに飛び乗り、一路伊勢に向かった私でしたが…

雨男を返上するばかりの晴天にも恵まれ、絶好の伊勢詣での日和となりました。

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外宮(豊受大神宮)の鳥居をくぐり、樹齢も数百年はあるかと思われる木立の中を歩いて行くと、行き交う人達がみなさん「おはようさんです!」と声をかけて下さいます。

杖を持って歩いている御年寄りの方の姿も多く見られ、何か心中悲願とされるものがある様に私には見受けられたものです。

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ご存知の方も多いと思いますが…
伊勢神宮は外宮と内宮に分かれ、外宮は天照大神に食事を司る神の豊受大神(とようけおおみかみ)をおまつりしています。

衣食住をはじめとした、豊かさをもたらす神とも言われています。

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僧侶の方達もこの伊勢神宮への参拝を仏教、神道の違いにこだわりなく大切にされている方達も多いのですが…

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私は今までお寺の用事などで伊勢に来る事はあっても、伊勢神宮の鳥居をくぐる事はなかったのでした。

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神社と言えば、自坊の近所の氏神様や仏教とも縁の深い八幡神をお祭りする神社には毎月欠かす事なく御挨拶には行っていたものの、いつの日かは必ず伊勢へと思いながら今回の参拝になってしまいました。

外宮の御正殿でも本当に清い厳かなエネルギーを感じましたが…

私はむしろ多賀宮と呼ばれる豊受大神の荒御魂(あらみたま)が祀られている社に強いエネルギーを感じました。
(((;゚д゚)))

そしてその近くにある風宮(風の宮)に手を合わせた時も同様で…
この風の神は鎌倉時代の国難の時に神風を吹かせて日本を守ったと神として言い伝えられていますが…

手を合わせる時、稟とした静けさの中にも…訪れる者をホッと安堵させる、パワフルな気の流れを感じていました。

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こうして外宮を後にした私はバスに乗り、続いて内宮を訪れました。

内宮とは皇室の御祖神としても知られる天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀り、外宮よりも更にその歴史も古く、2000年の久遠の時を超え古代のたたずまいを感じさせる場所でもあります。

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鳥居をくぐり歩きはじめると、外宮でも感じていた事ですが、足の裏に強いグラウンディングを感じ、地面に引き付けられる様で、身体がしっかりと伊勢神宮の磁場が良い事を教えてくれています。

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内宮では天照大神を祀る御正宮、その荒御魂をまつる荒祭宮(あらまつりのみや)共に清浄な一点の曇りもないエネルギーを感じ、社殿の奥に天照大神がしっかりと鎮座しているものを感じました。

私は二拝二拍手の後、心の中で、姓名や住所を名乗り、日本に生まれし縁を頂いた事を感謝すると共に、私の家族の健康や縁ある方達の御多幸をお祈りし…
万民豊楽、日本国安泰世界平和の為にどうぞ益々御活躍下さいと…
私なりの在り方でどうぞ役立てて下さいと御願いするばかりでした。

すると、ハートチャクラ(胸骨にある愛を司るエネルギーセンターです)に暖かい気を感じ、それはみるみる内に身体を包む様に拡がって行きました。

それはまるで天照大神が「正仙!やっと来たなぁ~!しっかり見守っているから頑張りなさい。」と優しく私に微笑み語りかけてくる様なエネルギーだったのです。

八百万の神と仏教の仏をその歴史の中で見事に融合させてきた日本…
もとより真言密教と神道は鎌倉時代より神仏習合『両部神道』として、密接な関係を築いて来た歴史もあり、明治維新による、神仏分離令や廃仏棄釈のその時までそれは続いていたのです。

明治維新までは神社の前で社僧が神の供養のためにお経を唱えていた時代もあったのです。

私が自坊で勤修する供養法にも、神分など、必ず天照大神や諸大明神などに祈りを捧げ、般若心経を御唱えする一節があります。

私の知る霊能者の方で、人生の絶望の時期にこの伊勢神宮を訪れ、神の声を聞き高度な霊能力を授かったと言いう方もいたりします。

その他、この伊勢の地を訪れた事による霊験談は私の知る限りでもかなりの数があります。

私は今回、伊勢神宮を訪れ、この地には人生を加速させシフトさせるヒーリング効果のあるエネルギーをまざまざと感じる事が出来ました。

いにしえの昔より「お伊勢参り」として人々の心を惹き付けてきたのも…現世利益を求める人々に効験の強さを示した事と共に、こうしたところにも原因があるのかも知れません。

ただ、これは伊勢神宮だけに限った事ではありません…。
神社仏閣を訪れ、祈りを捧げる時に、その後において急な人生の変転に晒される時もあると言う事…

信心深い人の中には「自分の祈りの内容が悪かったからそうなったのではないか?」とか「何か霊障に取り憑かれたのでは?」と深刻に考えてしまうケースも多い様ですが…

その殆どは…むしろ祈りに対する神の答えとして「思い出すべき何か」に気づく様に、人生上にある『不調和な部分』をわざと表面化させている様な事さえある様です。

その様な時は神や何よりも自分を信頼し、「起こる変化は全てより良きものへの変化
でしかない」と楽観的で居る事も大切ではないでしょうか。

私は時に、何かに縋ろうとお寺や神社巡りにエネルギーを消耗し過ぎて益々固いエネルギーになってしまっている方から相談を受ける時がありますが…

そんな時には思い切って当分の間、祈りから離れる様に提案させて頂く場合があります。

そんな時はむしろ自然に親しんだり、友達とカラオケに行き発散し、恋人と一緒にいる時間を大切にしたりする事がその本人に取ってしっかりと『今この瞬間を生きる』処方箋になる事があるものです。

私はいかなる神や仏にも「深刻さは無用」の様な気がしています。

神や仏に現世利益をお願いするのは良いのですが、強く願う時!それを支えている自分の思いに注意する必要もある様です。

不安がその根に巣くっていれば、祈りの作用と言うものはその不安に遮られ効果は半減してしまい…
強く願えば願う程、求める対象を遠ざけてしまうのではないでしょうか?

私達人間は口に神や仏(宇宙の黄金律)を信じると言っても、神の働きに何処かの部分で懐疑的なのかも知れません。

だからこそ、多くの願いを繰り返し託そうとするのかも知れません…
しかし皮肉なもので、繰り返し何かを求める様に祈る時、自分の深い部分は知っているに違いないのです。

「自分には求めるものが得られていない事を…」

「自分の望む場所にいない事を…」

自分には望み求め得る事が出来ない不安があるからこそ、神や仏を使い、(言い方が適当でないかも知れませんが)その状況を強くコントロールしたいと願うのかも知れません。

祈りを捧げる時大切なのは、自分の欲する事がすでにある事に感謝する事なのかも知れません。

「すでに望むものを得ている自分」

「すでに望む場所にいる自分」

こうした心持ちで、まるでそれはコンビニに必要なものを買いに行く様な気楽な気持ちで祈ると言ったら語弊があるでしょうか…?

神や仏への冒涜になるのでしょうか…?

勿論、ケタ外れのどう考えても実現不可能と思える祈りと言うものは、神や仏以前に、自分の深い部分が違和感と言うシグナルを身体に送ってくるので分かるはず…

感謝と共に実現可能と思える姿を思い描き祈ると良い様な気がします。
私が思うに願望実現の達人と言うのは、小さな目標を実現させて行き成功の為の確信を強め、その磁場を強力にして行く事の出来る人達の様な気がします。

話しが少しばかりそれましたが…

私は伊勢神宮を訪れた記念に内宮の神楽殿でご祈祷も受けたのです。

神職の方による雅さえ感じさせる祝詞の後に、綺麗な巫女さんからお神酒を盃に注いで貰い、私もすっかり上機嫌になったものですが、神職の方が唱える

「かしこみ~かしこみ~」と言う祝詞が…

「カチコミ~カチコミ~」と聞こえ、昔のさがなのでしょうか(笑)思わずニタリとしてしまった愚僧でした。

こうして私は伊勢神宮を後にし、おかげ横丁で美味しい伊勢うどんを食べた後に、お世話になった御住職の居る潮音山 太江寺へと向かったのでした。

【つづく】

合掌

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