僧侶となった今では尚更に飲酒戒を特別課しているわけではないのですが(笑)酒が次の日に残る気怠い感覚、冴えぬ頭がヒーリングやセッション、加持祈祷に影響を及ぼすものも感じられ(私の感想)イベントセッションなどの打ち上げで少々嗜む程度でしたが、それも今は無く、お客様より頂くお酒も有り難く御宝前に奉納させて頂くばかりです。
年齢もあるのでしょうが、酒など飲まずとも珈琲を飲みながらでも酒席同様のハイテンションな会話を楽しむ事が出来る事も分かっているし、今となっては酒席で腹を割る、あるいは腹を探る、悪しき談合にふける(笑)必要もなければ場面もない一介の僧侶にすぎず、人様の心のお手当の様な仕事をしているからと高尚を気取るつもりもなければ、構えたものはないのですが、無駄を落とす事がどれだけ心身にリラックスをもたらし楽に過ごす事が出来る事に直結しているかは言うまでもありません。
それに私の様な仕事をしていて幻惑される酒の効果に酔い甘んじている様では未熟なものを感じるもので、そうした事にあぐらをかいて習慣化している事自体が嫌な事に於いて、もう十数年前になる禁煙の時も同様でした(とは言え中学からの喫煙歴で偉そうな事は言えないのですけども笑)
それと私の場合、死んだ実の父親や極道渡世で酒を飲む男や女の顛末を散々見てきた事も反面教師としてすり込まれていたのかも知れません。百薬の長などと言われますが、やはりアルコールを長年摂取するというのはよく『内蔵を焼く』と言わせて頂いたりもするもので、肝腎要そのままに肝臓や腎臓、膵臓、胃腸を痛めつけ最期は肝硬変から肝臓ガンに至るケースなども見てきたのであり、腹水が溜まり痩せこけていながらもパンパンに張った腹を抱えながらも気勢を上げ酒をやめられぬ人間を見るとさながら地獄の餓鬼を見ている様な気持にさせられたものです。
回復の早い若い内ならいざ知らず、中年、中高年となると先々の事を考えたり老いや死の不安に駆られるのも当然と言えば当然なのですが、そこに大切な人との別れや仕事を失うなどの喪失感が引金となり、自制していたつもりの飲酒のペースも崩れ、それを紛らわす為に酒に溺れ依存症と化し寿命を縮めるパターンというものもあります。
人間というのは拠って立つ場所から考えた時に削ぎ落として行かなければならない事があるもので、私は真言僧となり、サロン、お堂を開所、開堂した時点で金波、銀波のネオンひしめく夜の街への出入りは当然の事として断絶したものです。クラブを経営する人間などからも『お世話になりましたからお代頂きませんからぜひ来てください』などと連絡を貰う事もありましたが、そんな言葉にその気になっておっとり刀で行ったはいいが、寂しい思いをするのは明らかで、またそんな時に『元』のつく人間は暴力沙汰に巻き込まれたりする魔の刻が用意されていたりもするものです。
そこにはただ風が吹いているだけ♪とは昭和のフォークソングの一節ですが、酒を飲んだ時の高揚感や連帯感も一晩明ければしらじらと、身体は重く祭りの後の寂しさがあるばかり、そんな事を繰り返している内に身体が悲鳴を上げてしまいます。酒をやめたからと長生きが保証されるものでもありませんが、その不安を埋める為に毒を採用するのが依存症に見るパラドックスでもある様です。
穏やかな日々と健康の為に緩やかに飲酒戒(笑)いかがでしょうか?