『年がら年中ボケーッとしている』などと人を指して言うものですが、決してその人間のマインドはボケーッとはしていないものです。仕事中も食事中もトイレの最中にも常に心は勝手気ままに走り回るもので、膨大なノイズが入る為、視点も定まらず、優先順位も定まらず、行動不確実を生み、感情や自我の命ずるままに時を過ごす傾向がそこにはあるばかりです。
思考を遮断し、真にボケーッと出来る時間をたとえ一日の内に30分でも取る習慣を持つ事が出来たなら、大きく人生の質が変わる事に必至なものがあります(とても至難な事)生涯に渡り知識を入れまくる事や対策や先々の事をそれも数年から数十年先を見越して用意周到にすべきが人生の勝ち組的なすり込みもある私達の生きるこの娑婆でもあり、明日死ぬやも分からぬのに生への固執、執着へ全世界がプログラミングされているものがあります。
子供から大人に至るまでが適者生存、対立や競争の世界構造にさらされている事もそこに拍車をかけ、自ずと狂気のマインドが形成されやすいものがあり、ここから覚めて安心、心の平和を得ると言うのは容易では無く、瞑想など、心の訓練が必要である事は明白で、そうした背景もあってかマインドフルネスなどの瞑想法が実業の世界で生きる人々の間でも世界規模の拡がりを見せた原因としてあるに違いないのです。
今の時代、たとえば自分の就く仕事にまた自分自身に伸び代の限界を感じながら日々を過ごしている人は多いものですが、仏教の視点で言えば、仕事は肉体を維持する為の収入を得る為にすべき作業であり、希望や刺激、ドラマティックな躍進よりも淡々と理性的に所定の任務を果たす事に重きを置くもので、とかく世間で言われる生きがいややりがいのある仕事や職場と言うものも、時と共に人間関係含め変化し、刺激の無い単調な事の繰り返しと言う事に直面したりするもので、新たなバリエーションを求めるあまり、また、刺激に飢える自我と転職の機運が自分の中で錯綜してしまい、かえってキャリアを失ったり寂しい仕事人生の晩年となるケースもある様です。
(勿論、転職の決断が吉と出る事も。でもその後単調に馴染む事に於いては変わらず)
そんな人でも瞑想を始める事で淡々と職場における自分の立ち位置や自分が仕事を美化し盛っていた部分に気付かされたり簡単に言えば肩の力を抜いて仕事の人間関係諸々に自分の全人格を没入させてしっかり背負って帰宅しげんなりと疲れてしまうのではなく、
仕事は真面目にしっかり取り組むにしても自分を会社や職場にレンタルにでも出してる感覚、客観視と言うものも瞑想で培える事でもあります。些細な事にも気付きが進み、また些細な事にも大袈裟に喜ぶ事が出来る様にもなったりと、伸び代が無いと落胆していたものも趣味や余暇の過ごし方でカバーしてしまう事が出来る様になったりと、価値観の転換も起きたりします。
豊かさや美しさをアピールしてたくさんのフォロワーを牽引するかの様なインフルエンサーの如き人々の言う事なども、今までであれば目を凝らして必死にしがみついていたところから、いつの間にやら深刻さを捨てて、いいとこ取りしている自分(笑)またそうした人々も言ってる先から綻びを見せる生滅変化の因果法則、諸行無常の世界に生きる地球村の仲間である事に違いないと気付かされたりするやも知れません。
合掌