人生に現れる好きな人、嫌いな人もカルマの内なのか?

アイツが、あの人が、どうにも好きになれない💢なんて言ってる人が、時と共にその忌み嫌っていた相手と仲良くなったり親密になったりで、周囲を驚かせる事は特別に珍しい事ではありません。

何故なら『嫌い』と事あるごとに意識に上ってくる、口から出る、人に語ると言うのも執着の現れで、相手と言う画像に集約し貼り付けているエネルギーがあるからで、こうしたものは何かのきっかけでコロリと反対の極に転じてしまう脆いものだからです。

勿論、生理的に受け付けない相手もいれば、暴力や侵害などの被害を被ったケースなど、生涯相容れないものを感じる相手というものもいるものですが、そうした相手との記憶も、関係が解消されたり解放された後も日々のタイムラインの中で傷付く出来事があったり、人とのトラブルが生じたりする時、パンドラの箱のフタが開いた様に脳裏に浮かんできて、不快感やショックを倍増させたりもします。

これも自我の攻撃と言うものですが、やはり深層心理の中で癒やされていない『画像』があるからで、本人の好む好まざるに関わらず、高速の断続渋滞の様にランダムに意識の中に現れ、なかなか掴んで離す事の出来ない執着を為すもので、苦しみが生じたりもします。

親子関係でも、子供の頃から仕打ちを受けたり愛情を全く感じられない親で、『私が親になったら子供にはこんな仕打ちや寂しい想いは絶対させまい、何よりもこんな親には決してなるまい💢』と思えば思う程に、その実、気が付けば自分も我が子に同様の仕打ちをしていたりと、矛盾する自己に突き当たったりで、思い通りにならない我が子の姿に本当はもっと自分を認め、受け入れ愛して欲しかった事や兄妹、姉妹間の差別をやめて欲しかった事などの想いが切実に浮上してきて、葛藤の後に気付きに転じ、親との関係を修復したいと望んだり、自分の子供との関係に穏やかさを見出す方も多い様です。

強い欲望を想起させる対象や相手と同様、嫌悪感や憎しみの対象となる相手と言うのは強く業(カルマ)が作用して現れる自らを内面から研ぎ澄ませる砥石の様な役割を果たす相手である場合も多い様です(ただただ、避難すべき相手もあり)こんな書き方だと、何か人生訓の様で爽やかに起承転結出来そうですが(笑)今流行りの断捨離ブームに乗って『嫌いな人はポイ、ポーイ、一切関わりませーん!』と一刀両断に見切りをつけられる相手なら良いのですが(笑)

仕事や家庭内の事情から縁切りするもおいそれと儘ならぬ状況に置かれる人間関係にこそ起きやすい問題なところでお試しでもあるのです。

こうした日々頭の中を占拠される様な人間関係の葛藤が生じた時、神仏に祈ったり、スピリチュアルで言えばハイアーセルフや自分の信ずる高次のマスターにガイダンスを求める事も出来ますが、『アタシ、スピも仏教も興味ないし』などと言う人も😆瞑想や内観の習慣を持つ事で、良心や知性を通して答えを受け取る事が出来る様になります。

好きな相手も嫌いな相手もまたそこに生じる心のパターンさえも、業と言う因果法則でプログラミングされている事の様です。好きも嫌いも淡々と執着せず通り過ぎなさいとは無常を説く仏教のスタンスですが、熱き血潮で人生に成功と情熱を求める人には何とも味気無いものに響くかも知れません。

でもそれは、何が人を苦の娑婆に引き付け輪廻させるのかまでを見越した透徹されたものであり、人との縁も人生に起きる全てが生滅変化のサイクルから逃れられぬ契約の内にある事、真の楽園は心の中にしか見い出せない事は、一天地六のサイの目を振って散らすかの様にかつては極道三昧に生きた私にとって、その世界にいる当時眺めてきた人間模様にも、我が身を通しても身に沁むばかりの真理でもあります。

合掌

読者登録してね

 【満席御礼】大阪出張セッション&ベジランチの会【残席2名】10月開催のお知らせ!

 

☆10月広島出張セッションと出雲大社参拝の

旅・初日満席、2日目残席3名

 

 

密教僧侶ヒーラー正仙
元ヤクザ組長から密教僧侶ヒーラーになった男
真言宗・大元吉祥堂・堂主・ヒーリングルーム吉祥・主宰

かつて極道の世界に身を投じていたが、獄中にて
スピリチュアルな気付きが始まり、出所後堅気になり、
その後真言宗僧侶と成る。

あたり前に生きる事が難しい今の時代、
自らを不安や恐れと言う闇の中に囲い苦しんでいる方達に
それぞれの方が本来持つ、
あるがままの素晴らしい光や輝きに気付いて貰える様に

愛を基にしたパワフルなヒーリングやリーディング、
講演を心掛けて行きたいと思っています。

タイトルとURLをコピーしました