鎮魂・今日は原爆の日


76年前の今日、広島に原子爆弾が落とされました。
私は現在、足立区に住んでおりますが、その前は台東区駒形、厩橋近くのマンションに少しの間住んでいたものです。その頃と言うのは現役の極道ではありませんでしたが、現在で言うところの半グレ、裏社会の住人である事に変わりはありませんでした。
でも、そんな刑務所の塀の上で踊りを踊るかの様な日々の中でも身体を鍛える事には興味があり、舎弟分に運転させてボクシングジムに通ったり、厩橋から浅草を通り過ぎて向島の白鬚橋まで隅田川沿いをよくジョギングしたものでした。
そんなある日、ホームレスや浮浪者の居住するブルーシートの家が建ち並び春になると綺麗な桜が咲き誇る隅田川でも浅草寄りの遊歩道をジョギングしていたもので、その当時、戦後間もない頃から上野浅草界隈で極道渡世に身を置いていた年輩の人間などから『あそこね、みんな知らずに花見なんかしてるけどもあの桜の木の下には空襲(東京大空襲)で死んだホトケさんがびっしり埋められているんですよ。ホトケさんが肥やしになって桜が綺麗に咲いている様なもんです』と語っていたのを『この辺りも当時は骸の山だったんだろうな』などと思い出し走っていたもので、ちょうど桜並木の途切れた辺りで休憩を兼ねてストレッチなどをしていると年齢で言えば50代~60代といった風情の小柄な女性が隅田川を向いて鉄柵に片手を添える様に立っていたもので、初め私はブルーシートの住人かと思ったものです。
明らかに分かるモンペ履き、でも目を引いたのは何とも古式豊かと言うべきか(笑)今時それはないだろう?と思えるモンペの柄と上着のシャツで、太平洋戦争を題材にした映画の国防婦人会から抜け出して来た様なそんな姿に映ったものです。走った後でもあり深呼吸しながら隅田川を眺めいる様にそのご婦人の近くに並んで立ったものでしたが、するとこのご婦人、私の方を見るでもなく『川が燃えたの…』とポツリと言ったものです。
私が『えっ、川が燃えた?』と聞き返すと『そう…燃えたの』と返答してきたもので、『川が燃えたってこのババア何を言ってやがる。痴呆の入ったホームレスか?』などと思ったのも束の間、眼前にナパーム弾(焼夷弾)などで火炎地獄と化した隅田川の様相を一瞬見せられた様な気がしたもので、
『そうか、東京大空襲の時の事を言ってやがるのか💦』と思い脇を見ると、既にその女性はおらず、日中の事で遊歩道もジョギングや散歩する人間など人の往来もありましたが、かと言って見晴らしが悪いわけでもなく瞬時に消えたとしか思えぬ状況に、思わず背筋が寒くなったものです(笑)
きっと、昭和20年に入ってより激化を増した東京大空襲(特に3月10日の夜間空襲では死者10万人下町空襲)で亡くなった方に違いないと確信する様な思いがありました。
その後、紆余曲折を経て私は裏社会から離脱し密教僧侶、ヒーラーとして活動する現在に至るのですが、そんな中で広島にも人のご縁を得て出張でのセッションやお話し会で訪れる時がありました。何年も前の記事で書いた事もあると思うのですが、広島滞在中などもセッションの会場までの移動時など、エレベーターから出ると大人の背後にモンペ姿ではにかむ様に立つ三人組の子供の姿(未成仏霊)を見る様な時があり、原爆で亡くなった子供だなと分かるものがありました。
直接、原爆とは関係の無い事かも知れませんが、終戦に至った76年前も暑かったであろうこの時期に至ると、平和への想いと共に隅田川で見た女性のモンペの絵柄を思い出すものです。
広島より遠く離れた東京の空の下からではありますが、爆心地に向け自坊より鎮魂の祈りを捧げる愚僧であります。
 ヒロシマの空   林 幸子 
主婦、被爆時23歳、原爆で両親と弟を失う。 
当時、市内昭和町(原爆地から二キロ)に在住。 
夜  野宿して 
やっと避難さきにたどりついたら 
お父ちゃんだけしか  いなかった 
――お母ちゃんと  ユウちゃんが 
死んだよお…… 
八月の太陽は 
前を流れる八幡河やはたがわに反射して 
父とわたしの泣く声を  さえぎった 
その  あくる日 
父は  からの菓子箱をさげ 
わたしは  鍬くわをかついで 
ヒロシマの焼け跡へ 
とぼとぼと  あるいていった 
やっとたどりついたヒロシマは 
死人を焼く匂いにみちていた 
それはサンマを焼くにおい 
燃えさしの鉄橋を 
よたよた渡るお父ちゃんとわたし 
昨日よりも沢山の死骸しがい 
真夏の熱気にさらされ 
体が  ぼうちょうして 
はみだす  内臓 
渦巻く腸 
かすかな音をたてながら 
どすぐろい  きいろい汁が 
鼻から  口から  耳から 
目から  とけて流れる 
ああ  あそこに土蔵の石垣がみえる 
なつかしい  わたしの家の跡 
井戸の中に  燃えかけの包丁が 
浮いていた 
台所のあとに 
お釜が  ころがり 
六日の朝たべた 
カボチャの代用食が  こげついていた 
茶碗のかけらが  ちらばっている 
瓦の中へ  鍬をうちこむと 
はねかえる 
お父ちゃんは  瓦のうえに  しゃがむと 
手  でそれをのけはじめた 
ぐったりとした  お父ちゃんは 
かぼそい声で指さした 
わたしは鍬をなげすてて 
そこを掘る 
陽にさらされて  熱くなった瓦 
だまって 
一心に掘りかえす父とわたし 
ああ 
お母ちゃんの骨だ 
ああ  ぎゅっ  とにぎりしめると 
白い粉が  風に舞う 
お母ちゃんの骨は  口に入れると 
さみしい味がする 
たえがたいかなしみが 
のこされた父とわたしに 
おそいかかって 
大きな声をあげながら 
ふたりは  骨をひらう 
菓子箱に入れた骨は 
かさかさ  と  音をたてる 
弟は  お母ちゃんのすぐそばで 
半分  骨になり 
内臓が燃えきらないで 
ころり  と  ころがっていた 
その内臓に 
フトンの綿が  こびりついていた 
――死んでしまいたい! 
お父ちゃんは叫びながら 
弟の内臓をだいて泣く 
焼跡には鉄管がつきあげ 
噴水のようにふきあげる水が 
あの時のこされた唯一の生命のように 
太陽のひかりを浴びる 
わたしは 
ひびの入った湯呑み茶碗に水をくむと 
弟の内臓の前においた 
父は 
配給のカンパンをだした 
わたしは 
じっと  目をつむる 
お父ちゃんは 
生き埋めにされた 
ふたりの声をききながら 
どうしょうもなかったのだ 
それからしばらくして 
無傷だったお父ちゃんの体に 
斑点がひろがってきた 
生きる希望もないお父ちゃん 
それでも 
のこされる  わたしがかわいそうだと 
ほしくもないたべ物を  喉にとおす 
――ブドウが  たべたいなあ 
――キウリで  がまんしてね 
それは九月一日の朝 
わたしはキウリをしぼり 
お砂糖を入れて 
ジュウスをつくった 
お父ちゃんは 
生きかえったようだとわたしを見て 
わらったけれど 
泣いているような 
よわよわしい声 
ふと  お父ちゃんは 
虚空をみつめ 
-風がひどい 
嵐がくる……嵐が 
といった 
ふーっと大きく息をついた 
そのまま 
がっくりとくずれて 
うごかなくなった 
ひと月も  たたぬまに 
わたしは 
ひとりぼっちになってしまった 
涙を流しきった  あとの 
焦点のない  わたしの  からだ 
前を流れる河を 
みつめる 
うつくしく  晴れわたった 
ヒロシマの 
あおい空 
合掌

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密教僧侶ヒーラー正仙
元ヤクザ組長から密教僧侶ヒーラーになった男
真言宗・大元吉祥堂・堂主・ヒーリングルーム吉祥・主宰

かつて極道の世界に身を投じていたが、獄中にて
スピリチュアルな気付きが始まり、出所後堅気になり、
その後真言宗僧侶と成る。

あたり前に生きる事が難しい今の時代、
自らを不安や恐れと言う闇の中に囲い苦しんでいる方達に
それぞれの方が本来持つ、
あるがままの素晴らしい光や輝きに気付いて貰える様に

愛を基にしたパワフルなヒーリングやリーディング、
講演を心掛けて行きたいと思っています。

 

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