私は極道当時、飲んで明かして夜が明けた繁華街の路地を歩いている時など、道路の脇に積み上げられた生ゴミの集積、それをついばむカラスの群れ、綺麗と思ったネオンの縁にも錆びが吹いているのを見る時、祭りの後の寂しさ、言い様の無い無残な感覚を覚えたものです。
お釈迦様が肉体を不浄の物として見る様教えているのは、エゴ(自我)が肉体が全てと私達を幻惑し、あらゆる緊張や対立を生じさせる事に対して、肉体は老いや滅びをさけられぬ『器』に過ぎず、そんな物を誇大に扱い固執すれば、かえって飢餓感を伴う強度のストレスにさらされ、心の平安を失い、病気から対人不和、あらゆる相克の原因になりかねない事を暗に指しているもので…
それは端的に言えば『朝から晩まで晩から朝まで着る物の心配などするな』と言う事でもあります。
整形なども行き過ぎれば最後は修復不可能な無間地獄に陥りやすいもので、これなども劣化する容姿肉体に執着したが為に生じた怖れの投影と言うものかも知れません。
女性にとって美しさを追い求める事は生涯のテーマかも知れませんが(笑)内面の美しさなければ、容姿端麗でも安普請の家の様に明け透けに映る事に於いて男女の区別もまた無い様です。
合掌