☆『悪魔を出し抜け』を読んで…赦しの実践とは?ヒーリング私記

写真の「悪魔を出し抜け」は引き寄せの法則の元祖とでも言うべきナポレオン・ヒル博士の没後70年以上が経過して出版された本です。

引き寄せの法則で言えばロンダ・バーンの「ザ・シークレット」や続くシリーズに人気があったりしますが、私は引き寄せに関する本で言うなら、書かれた時代は古いのですがナポレオン・ヒル博士の書いた「思考は現実化する」などシンプルで分かりやすいものがあり好きでした。

ただ、今は引き寄せに関する本を読む事はありません(笑)

今回のこの本も「奇跡講座」を共に学ぶ友人が(共に学ぶと言っても単に自学自習を基本の生涯学習 笑)自分の感想と共に私に薦めてくれた事から読んで見たのでした。

※「奇跡講座」(奇跡のコースとも呼ばれる)とは1965年から7年に渡り、ニューヨーク、コロンビア大学の心理学者ヘレン・ジャックマンとウィリアム(ビル)・セットフォードによって記録されたイエス・キリストの口述、コース(講座)であり、テキスト、ワークブック、マニュアルの三部作から構成される赦しの実践を説く霊性の書です。
(現在は二冊に編纂)

「悪魔を出し抜け」は第二次世界大戦以前に執筆されたもので、ヒル博士が失意の時期に聞こえたと言う「悪魔」との対談形式で進められる内容です。宗教が持つ欺瞞や学校の教育や影響ある人間からの刷り込み、洗脳、貧困に至るまで人間の「流される思考」の果てにあるものを的確に指摘しているものがあり、やはりヒル博士の名著「思考の現実化」がベースにあるものを感じます。

当時とすれば過激で反国家、体制批判ともオカルトとも取られかねない内容と危惧した家族が出版に反対した為、ヒル博士の死後70年以上を経て(2011年)出版されたと言うこの本ですが、ヒル博士が悪魔との対談を収めたものなのか?それとも「エゴ・自我」を「悪魔」に見立ててそれに語らせる形を取って当時とすればタブーだった政治や教育、宗教に至るまでの内容を指弾させているのかは分かりませんが、執筆より70年以上を経た現代社会の混乱を予見している部分もあり、また人が生きて行く上で思考の大切さや悪魔に名を借りたエゴがどの様に人間を幻惑するのかなどのパターンにも触れており、現代に生きる人々にもとても実用的でマッチしたものがあります。

ただ、それも肉体の生、今回限りの人生ならばの話しで…多くのスピリチュアルが支持する光と闇、陰と陽☯️地獄と天国、悪魔と天使(天使は身近に感じます)と言う二元論の域を出ないものを私などは感じるもので、この本の中で悪魔に対する「対抗勢力」として暗に光の存在をほのめかしている悪魔の言葉の引用などもあり、この時点で両極が争っている様に二元の世界を提示し、幻惑してその姿を引っ隠すエゴのしたたかさを見て取れる様な気がしたものです。

それは、このとてもリアルに感じる幻想道場とも体験型の劇場とも言える娑婆(しゃば・人間世界)に於いて生きる為の方便、指針とは成り得ても、繰り返し人間が霊性のビュッフェの前にトレイを持って並ぶかの如く輪廻させられる壮大なトリップの輪(輪廻転生)を断ち切るものには成り得ない事…とかく視界に入ってくるものに真実を追い求める様に(豊かさや成功なども)エゴに仕向けられる私達人間にとって、真に醒めて生きると言うのは途方もなく難しい事でもある様です。

誰しも明確な目標があり積極思考があれば幸せになれるのでしょうか?

引き寄せ本に登場する「思考の現実化」で大成功を収めたとする著名な起業家や実業の世界で生きる人間のその後の転落ぶりをレポートした人間もいたりします。

スピリチュアルで「契約」と言えば何か深遠な魂の約束事の様に思われがちですが、この世界に生まれる前に「エゴとの契約」によって親兄弟、配偶者との出会いや別れ、貧富への振り分け、人的トラブルや病気や事故などのタイミングも定めて生まれてきている事などをお話しする時、大方の人は夢も希望も無い様に感じてしまい落胆してしまうものです(笑)

こうした事と言うのは「分離意識」とも呼ばれる神から切り離された(実際は離れてなどいない)と言う私達人間に組み込まれた原始的な恐れにその原因がある様で、神の安らぎや平和を求めながら、かたやで人間は見るもの全てに価値判断を生じさせ、利害が一致すれば愛を感じたり、友情を感じたり、連帯感に酔ってみたり、またその逆に常に人間関係に裁きを持ち込み、信念の強化、分離、分裂、排斥、対立、争闘、侵奪を発生させるもので、ミクロにもマクロにも常にカオスを描いていっこうに落ち着きを得ない世界の様でもあります。

そんな時…「だから内面に平和を見出だすのでは?」とはスピリチュアルならずとも用意された答えではあるかも知れませんが…瞑想を行う人などが瞑想で得た心の穏やかさも「たった一本の不快な電話で吹っ飛んでしまう」と話してくださるのをお聞きした時などもあるもので、なかなか人間と云うものトータルに心身の安寧を得る事は出来ぬ生き物の様でもあり、右を見て左を見て「貴方はどうなの?」「私はこうなの?」とばかりにお互いの立ち位置を確認し、時には学んだスキルや教師に懐疑的になったり新たな何かを付け加えたり断捨離したりしながら(人間関係含め)宣伝や告知、物販までを絡めて食べる都合から商業としてのスピリチュアルも展開して行かなければならぬところへ立たされているのもスピ業界に生きる人間の実相と言うもので、スピリチュアルを選択しながら、やはり競争があったり中傷にさらされたり悩みの渦中にある皮肉な状況など、今までセッション時にどれだけお聞きしたか分かりません。

自己実現や豊かさや成功に向かってアクティブに人生を創造し楽しむ事大いに結構な事だと思います。
でも、人生と言うのは成功一途には行かないもので、裏目続きの時や不遇の時期、不幸が重なったり愛する人との別離があったり、病気や事故に遭ったり(家族、周囲にも)望む望まないに関わらず色々発生するものです。

私達人間はそんな時、そんな不幸な状況にさえ神や佛のメッセージを見出だそうと努力したりするものですが、そんな時「こんな状況のどこに神がいる?やっぱり神なんてものはどこにもいねえじゃねえか💢」と、神の介在を見出だせない理不尽を感じる時だってあるものです。だからこその信仰と言う見方も出来ますが、人間「癒されていない画像」と言うものは必ず何らかの人生の蹉跌となって姿を現すもので、信仰に没頭すれば解決するものばかりではないのです。

こんなところにも私が今までも繰り返し書いてきている「握手と恐喝」「アメとムチ」など「懲罰の神の鋳型」があるもので、こうした神の姿を古来より時の権力者は国を統治する為に利用してきた歴史さえあるもので、私が「そんな神ならばヤクザの親分の方がなんぼかマシではないのか?」とよくお話し会などで話させて頂く由縁でもあります。

「世界は無い」

「宇宙は無い」

「他者は存在しない」

と明快に喝破する冒頭で紹介した「奇跡講座」の概念はキリストの言葉を引用しながら仏陀の言葉の様でもあり、初めて読んだ時など不思議な感慨が湧き起こったものです。
(これは端的な言葉の引用で内容はとても重厚です)。

「幻想の世界に参加しているのではなく自らが幻想の世界を生じさせていた」と悟ったお釈迦様がこの世界を「苦の娑婆」と呼び、おらゆる執着からの解脱を説いた事はよく知られているかも知れません。この奇跡講座でもキリストは簡単に言うとこの私達人間の生きる世界を「無意味な夢を見ている様なもの」と論じているもので、これはいっけん無責任で退廃的な言葉にさえ聞こえるかも知れませんがそうではなく、目の前に見えるイメージ(出来事や場所、人など)から派生するエゴに幻惑される事なく、聖霊(内なる神、ハイアーセルフ)の視点視座で深奥を見る様に促すもので、そこには日々、些細な事からさえ生じる「赦しのレッスン」に向き合う事が伴うもので、元極道でかつては瞬間湯沸し器の様だった私にとってそれはある面とても難儀で挑戦的とも思える内容でした(笑)

「赦しのレッスン」などと言うと…

「何を綺麗ごとを💢」

「だって赦しなんてさ、こちらから謝るみたいで人間安く見られるじゃないか…」

「こちらばかり受け身一辺倒に赦しなどアホのする事だ!」

「社会的に道義的に制裁や被害者感情だって考慮されるべきケースばかりなんだから赦しなんて絵空事だろう?まあ部分的には仕方ないところもあるが…」

「あんた、そんな気楽な事言うが、自分の家族が理不尽な目に遭わされたり事件に巻き込まれたりしたらそんな呑気な事言ってられるのかよ!ヒーラーなんて仮面脱ぎ捨てて、またヤクザ式に復讐するんじゃねえのか!」(^^;

などなど…反応も人それぞれなものがあるかも知れません。

こうした事に於いて誤解されやすいのは「猫も杓子もあたしが我慢して赦せばいいのよね」と言う様な短絡的な解釈であり、暴力や事件性、明らかな侵害行為など、警察や司法を介入させるなどの毅然とした措置が必要な事でもあり、そんな状態でなし崩しに相手の言うがまま、なすがままに成れと言う事では決してありません。

でも、こんな状況でも内面の統御はその人に預けられたものがあり…「本当はこの不快の出来事(相手も)も霊的真実に於いて自らが選ぶべくして経験しているイメージであり幻想なのだから私は赦す」と胸に手を当てでも心の内で宣言し理解する時、他の人がする様に訴訟を起こしたりしながらも、心の穏やかさ(多少の波はある)を保つ事も出来るもので、これを生活全般八方に心掛け拡げて行く時、自ずと心が掻き乱される事もなくなるものです。

元極道の私の観点などからすると、人と言うのは何らかの被害に遭い警察に飛び込む時と言うのは乾坤一擲の心境で感情など介在させずに臨んでいるもので、むしろしばらく時が経ってからトラウマと化した事件の記憶と向き合う赦しのレッスンを発生させる様にお見受け出来るものです。

むしろ難しいのは、日常に発生する人間関係、夫婦間のダンマリを決め込む意地の張り合い(笑)姑の辛辣な嫌味、子供の反抗期への対応、会社でのパワハラやセクハラ、運転中に受ける煽り運転、割り込んできた車の運転手からの理不尽な「バカヤロー」の怒鳴り声、SNSでの遠回しな誹謗中傷など、人からすれば些細な事に怒りや葛藤で動揺し、その日一日自分の頭の中を乗っ取られてしまうのも私達人間なのです。

こうして考えると、誰しも日々「赦しのレッスン」にさらされている事にお気付きになるのではないでしょうか?

また、こうした問題発生時も膝を突き合わせてお互いにサポートし合う事で発展的に問題が解決する場合もあるもので、結果には拘泥せず相手に期待しないスタンスがあれば、力が抜けてお互いにとって良い結果に繋がる事も多いものです。

表に押し出したい(相手に)感情に苛まれ赦しなど及びもつかない時でも、鏡の前でその人間にぶちまけたい言葉を感情のままに怒鳴ってみるのも効果があります。怒鳴ってる先から力が抜けたり「それだけなのか?自分の思いだけに囚われていないか?」などのか細い声が自分の中にこだましたり、それなりに気付きをもたらしたりしてくれる場合もあるものです。

冒頭のナポレオン・ヒル博士の「悪魔」をエゴと置き換えるならば、エゴは私達にいつでも「肉体が全て」と思い込ませる事に於いて全て集約させているものがある事は明らかで…国家間から個人間の争いに至るまで、この「肉体が全て」に派生している事、よく考えて頂くと分かるものがあると思います。

そう言う意味では世界を牛耳ると囁かれる超政府の存在、フリーメーソンやロスチャイルド、イルミナティ、軍産複合体もエゴの振り子にコントロールを受ける「エゴの駒」にしか過ぎない事、こんな観点で新聞を見るとエゴが何を目論見、目指しているのか?分かるもので、時には部分的な平和や友好をチラつかせながらも、猜疑、分裂、闘争へとその歴史を繰り返す事にしか答えを導けないエゴ自体、究極は殺人を奨励するばかりで、行き着く先を知らぬに違いないのです。

赦しのレッスンを実践して行く時、別に霊的な儀式を必要とせずとも、もっとも自分を良く知り、千以上もあると言われる過去世から未来世に至るまでの課題やテーマを知りサポートする事に於いて親密な聖霊(内なる神、ハイアーセルフ)の視点視座に同調するところとなり、穏やかな物の見方が自分の中で広がり、心身の安定さえもたらされる様になります。「聖霊との繋がりを心掛けると神佛もよく働いてくださいますよ」とはよく言わせて頂く事でもありますが、聖霊との繋がりを大切にする事は内なる祭壇を整える事でもあり、これは当然手を合わせる寺社仏閣にも投影されるものがある様です。またこれが個々に於いて為されて行く事が実は世界平和への近道の様な気がしてなりますせん。
(学校で意識は継続して行き、死後の世界がある事も教える事も大切と考えます)

「赦し」と言うと何か重く考えてしまいがちですが、冒頭に書いた分離意識から生じる「罪悪感を手放し癒す機会」としてとらえる事が大切の様です。これを習慣として行く時、聖霊が私達が個々に定めてきたハードな経験も「レッスン済み」として時空から切り取ってくれる様で「よく遊び、よく学び、よく赦す」事がこの世界での生き方上手の様でもあります。             

合掌

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