☆神社探訪…神田明神と湯島天満宮へ…崇敬と忌避の鋳型に見るものとは?

今日は強風と時折強い雨の降った東京ですが、昨日は真夏を思わせる猛暑の中、上野での用事を早々に済ませた私は江戸総鎮守神田明神と湯島天満宮(湯島天神)へ参拝に行ってきました。

 

 
 

         

                                                          

 

出雲の神、大国主命(オオクニヌシノミコト・だいこく様)は私自身ご縁を感じる好きな神様ですが、大国主と同体と言われる大己貴命(オオナムチノミコト)を祀る神田明神は親しみを感じる神社でもあり時折訪れたりします。

 

 
 

神田明神

【御祭神】

一之宮 大己貴命
(おおなむちのみこと)

 

大国主命と同体と言われる神であり、これも同様に「だいこく様」の別称を持ち江戸の庶民に親しまれてきた歴史があります。

天平2年(730)に鎮座。

国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮すると言われ、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されている他、また私達の先祖が住まう世界・幽冥(かくりよ・霊界)を守護する神とも言われています。

二之宮 少彦名命
(すくなひこなのみこと)

商売繁昌の神様(えびす様の別称でも親しまれる)
商売繁昌、開運招福、医薬や健康に関わると言われる神様です。
日本で最初に誕生したと言われる神様の一柱・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)の子供と言い伝えられ、大海の彼方・常世(とこよ)の国より来たと言われ、手の平に乗るほどの小さき姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の基礎を築いたと言われる神様でもあります。

三之宮 平将門命
(たいらのまさかどのみこと)

除災厄除の神様と言われ、戦勝祈願など武将から崇敬されてきた人神。
延慶2年(1309)にご奉祀。
平将門公は、承平・天慶年間の豪族。武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革に立ち上がり命を賭して民衆たちを守ったと庶民の間で将門信仰が広まり現在に至る。

明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座 するも、昭和59年に再神田明神本殿に奉祀され今日に至る。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には平将門公の首が祀られています。

 
 
 

 
 

 
 

 

湯島天満宮

【御祭神】

天之手力雄命
(あめのたぢからをのみこと)

 

菅原道真公
(すがわらみちざねこう)

 

 

 

 

湯島天満宮は、西暦換算で458年、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたのがその始まりと伝えられています。

これが南北朝時代に入り正平10年(1355年)住民の請願により菅原道真を勧請して合祀したとされ、この時をもって正式な創建とする説もあり。

徳川家康が江戸城に入ってより徳川家の崇敬を受けた神社としても知られ、江戸時代には多くの学者や文人が訪れるなどして崇敬を集める一方、享保期には富籤の興行が盛んになり庶民に親しまれた歴史もある様です。

※富籤・とみくじ

主に江戸時代に行われた寺社普請の為の資金収集の方法。宝くじの起源といわれるくじ引の一種で、賭博でもある。現在でも富会としての富くじを行っている寺社や商店街の福引として残っているもので、私が昔にいた極道の世界で「寺銭・テラセン」などと言う博打用語がよく使われたものでしたが、こうした事も古い時代からの博打打ちと寺社仏閣との繋がりを現す名残の様な隠語でもある様です(笑)

 

 
 

 

神社の社格で言えば、湯島天満宮は明治5年近代社格制度においては郷社に属し、明治18年に府社に昇格。平成13年(2001年)神社本庁の別表神社に指定された他、平成12年(2000年)3月31日、「湯島神社」から現在の「湯島天満宮」に改称された様です。

話は変わって…

神田明神の御祭神の平将門公は実は真言宗にとっても縁の深い人神様でもあるのです。
(宗教の裏面史とも言える事)

平安中期、将門の乱が起きた時、朝廷が寺社に将門調伏の祈祷を依頼した歴史があり、伊勢神宮や宇佐神宮でもこの乱鎮定の祈祷をしていた様です。

有名な将門調伏伝承が残る寺として、お不動様(不動明王)で知られる千葉県成田市にある成田山新勝寺があります。『成田山略縁起』と言う伝承されているものもあり、それによれば平将門が相馬郡に都を建て、「親王(新皇では無い)」を名乗り自ら称したため、時の朝廷から朝敵と見なされ、そうした経緯から勅命が下り、遍照寺の僧・寛朝が調伏することになります。

※調伏祈祷(ちょうぶくきとう)
祈祷によって悪魔・怨敵(おんてき)を下すこと。降伏(ごうぶく)。

成田(千葉県成田市)を訪れた寛朝は不動尊像を安置し、調伏のための護摩を修しました。かくして将門は滅び、寛朝は都へ帰ろうとした様ですが、不動尊像がその地で動かなかったと言う逸話があり、そこでこの地に現在の成田山新勝寺が建立されたと言うお寺開基の歴史がある様です。

でも、東国、関東には反権力の英雄でもある平将門を祀る地が多く残るところとなり、こうした土地の人たちの間では成田山参拝忌避の言い伝えなども存在する様で、今日に至るもそれを守る方などもいる様です。

以下はWebより引用

『我孫子市では、成田山開帳の日は血の雨が降ると伝えられています。明治時代に成田山参拝禁忌を破った者が三十代で若死にしたといい、現在もその家ではこの禁忌を守っていたと伝えています。
ところが、成田山が関東地方で有名になったのは、江戸出開帳を元禄十六年(1703)に実施した際、大成功を納めてからだといいます。その後、成田山の江戸出開帳も頻繁に行われるようになり、江戸っ子の人気もあり、これは信仰上の人気というよりもイベント好きの江戸っ子に歓迎されたようです。ところが宗教上の対立が発生しました。一つは「将門調伏」を掲げていた成田山新勝寺に対し、関東の英雄将門を支持する人も多かった江戸では、当然対立してきます。もう一つは、古くからある在地の宗門としては、新興の成田山に人気があるのは当然面白くない。こういった宗教上の対立が江戸っ子の「将門人気」を利用し成田山忌避の伝承を広げたように思われます。もっとも顕著に忌避していたのは江戸っ子の氏神様「神田明神」でした。成田山忌避伝承はその広がった時代を考慮すると、元禄時代以降に成立したように思われます』。

お寺と神社の対立さえ描くかの様な内容ですが、私の元にセッションで訪れる方の中には、仏教徒である為に「神社の鳥居をくぐると目が潰れる決して神社には行くな!」と子供の頃に教え込まれた親の刷り込みが神社に対する嫌悪感やブロックを生じさせている事を話してくださるケースなどもあり、こうした事を透視ヒーラーの世界では「宗教画像」などとも呼んだりしたものでした。

元極道の私などは命の取り合いをした間柄(組織間)でも吸収されたり、納得の上、身内として和合して行く清濁併せ呑むかの様なその世界の流転や組織の趨勢なども見てきた事から、密教僧としてまたヒーラーとしてスピリチュアルな道を歩んで行くにあたって、寺社仏閣の歴史に於いても組織教団として見る時、仕切りは完璧な神たり得ない人間がしているのであり、様々な軋轢や矛盾がそこにあるであろう事は大方予想していた事でもありました。

「祟りの強い神だから願いを聞き届ける力も強い!」

「賞罰の激しい仏だからこそ効験(祈祷の効果)も迅速なものがある、多少の罰もしかたがない💦」

「神や仏にだって感情はあり、拝み方一つで機嫌を悪くさせてしまうのも何ら不思議じゃない!」

などなど…

宗教家やスピリチュアル共によく見られる神や仏に対する憧憬とも期待とも思える概念と言うもの…
そんな概念に触れる度に、私は若き日から身を投じた極道の世界にあってもっとも関わり深く影響を受けた方(死去)の言葉を思い出したものです。

「ええか、極道はの、聖人君子になんかなったらあかんのじゃ、いいヤクザ云うのは怖がられてナンボやぞ、覚えとけ…」と言ったその言葉こそ、

実は多くの方の神仏に期待するものに裏打ちされているものと同質の物と言ったなら天の邪鬼に過ぎるでしょうか?笑

様々な神話や神社やお寺の由来や歴史を調べて楽しむのも大いに結構な事だと思います。でも、私はいつからしか人間が貼り付けた神仏へのイメージから離れて、人間の思惑などに影響されない純然たる御神氣に触れ、手を合わせる事が気持ち良く神社を訪れる事が多くなって行った様な気がします。
(自身が密教僧となってからはお寺を訪ねる事はグッと少なくなってしまいましたが…笑)

                    

  合掌

 
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