☆よく噛んで食べる事は瞑想に成り得るのか?…今この瞬間を生きる為の咀嚼のススメ・アウトレイジ私記

「早飯も芸の内」などと言う言葉がありますが、私がかつていた極道の世界は、上から下まで基本早メシが習慣化された社会だった様な気がします。
ヤクザの世界と言うもの…万事が綺麗に早く形良くと言うところがあったものでしたが、力のある組織の事務所などは食卓に並ぶおかずも豊富でバランス良く、おかずの皿や小鉢、ご飯を盛る茶碗、味噌汁の入ったお椀が部屋住み(へやずみ)と呼ばれる修行中の若者によって綺麗に配膳され、お茶やおしぼりも必ず置かれ、食べ終わればサッと爪楊枝まで出てくる気の利き様だったものです。
食卓を囲んで、食後に所属する組や一家の直系となっている幹部や組長同士が大きな湯のみに入ったお茶をすすりなから談笑する事はあったものですが、食事自体にかける時間は短く、お茶を飲んでいるその時にはすでに部屋住みにより速やかに皿やお椀も下げられているもので、一般の方が見たならば、上にいる人間達が食事をしている時の部屋住の若者の機敏な動作や気遣い、そして極道の面々のその食べる早さに驚かれる事必至です(笑)
掃除や洗濯、炊事、親分や当番に入る幹部や組員の食事の給仕から雑用に至るまで、部屋住みと言うものは下手を売れば(ミスをすれば)ドヤされたりで、一日中ピリピリ気の休まる時などないものですが、でもやがてそんな緊張の中にもリラックス出来る様になるもので、親分と呼ばれる一家の頭領や各組の組長や幹部の人間に顔を覚えてもらうのも部屋住みの財産ならば、こうした自由を拘束され、気遣いや上の人間に対する所作を覚えて自分の組に帰って行く事もその世界を生きる上での財産となる事でもありました。
(少子高齢化が裏社会にも波及する現在、部屋住み事情も当時とは違うものがある様です)
私なども若き日を振り返ると緊張から逃れて床屋へ行って居眠りしている時が憩いの時間だった思い出があります(笑)
(-.-)Zzz・・・・
※極道の世界を礼賛するものではありません。
またこれは、事務所の中ばかりでなく、自分がヤクザの籍を置く直属の親分や兄貴分との食事の席は勿論、さらに上部団体の組長や総長などのボディーガードを兼ねた随行での食事の席などに於いても一緒であり、席を作りその世界の偉い御仁に先に着席してもらった後も、次の移動先の手配から交通経路の確認、追加の飲み物と言われカウンターと席を往復してみたりと、落ち着いて着席していられる状況ではない事も多く、自分より高目の人間(高目・たかめ・役職など上の人間を指す)より箸を持つのが後になっても先に食事を終えて、席を立つ時には会計も済んでおり、素通りでレジの前を通過出来るのが当たり前であり、そうした事情から普通に食べている事が叶わないと見るや、頼んだうどんなどが熱い時など、これ見よがしにならぬ様にサッとコップの水をいれて冷まし、掻き込む様に胃に流し込む事も度々あったものでした(笑)
早メシと云うことであれば。裏社会の住人にとって、塀の中の刑務所も塀の表の娑婆(シャバ)に於いても等々なものがあるのです。
私は中学校を卒業して右翼団体に入った後に極道の世界に飛び込んで行ったものですが、その間、鑑別所から学園、中等少年院、特別少年院、そして少年刑務所などでの服役経験もあります。塀の中では難しい事は考えずに早寝、早メシ、早便が美徳とされているところもあり(笑)
二十代や三十代の若い懲役(受刑者)から、入れ歯の世話になっている六十代後半から七十代の老いた懲役までが変わる事なく一様に早メシであり(笑)ゆっくり食べていたのでは休憩時間を削られてしまう都合もそこにはあるのですが、少年院や刑務所など繰り返し再犯で塀の中と娑婆の往来を繰り返す人間ほどその傾向が強かった様な気がします。
私は17才の時に当時所属していた右翼団体と暴力団のトラブルから傷害事件を起こし、横浜にある仏教と名の付く学園に委託試験観察で数ヶ月入所した事があります(後に脱走)
この施設は高い塀で囲まれた刑務所や少年院などとは違い、塀はあるものの、一般篤志家の大きな邸宅の各部屋を区切り矯正施設としているもので…
「おまんらの根性が愚連隊だ!チンタラチンタラとメシを食べてクソをたれる行動不確実じゃいかんのだ!」と、ことあるごとに連呼し、時には癇癪のままに違反を繰り返す園生を正座させ、竹刀で打ち据えていたこの学園の園長は、反面情け深いお人柄の方でもありましたが、戦時中の軍隊経験者であり、当時の私などからすれば仏教と言うよりも戦中の予科練の規律や訓練を導入しているのではないかとさえ思えたこの学園でした。

トイレなども社会生活を送る上でしっかり自分で律するもので、ランダムなだらしないものでは更正して就く会社や職場で通用しないとばかりに厳格なものがあり、起床前のまだ薄暗い朝の4時半くらいに起きて済ませておかなければならず、新入時などは脱走防止を兼ねて先に入所している園生に一々申告してトイレも行かなければならぬしきたりが設けられており、「ツケ馬」付きで用便を済まさなければならぬ窮屈なものでした。朝は「ジリリリーーン」とベルの音で跳ね起き、本当に数秒で寝具をたたみ(これもたたみ具合などチェックが入る)パンツ一枚でスリッパを持ってダッシュで玄関先から庭へ出て国旗掲揚から点呼を取り、広い家の周りをマラソンするのでしたが、それが済んだ後は長い廊下を「ヨッショッ、ショッ、ショッ、ショーーッ!根性出してーー!頑張ってーー!」と掛け声をかけながら何十往復もするこの施設名物の『雑巾掛け』が待っているのであり、私なども入所当初は息が上がり、脚が筋肉痛で棒の様に突っ張ってしまったものです(笑)

※ツケ馬・おもに借金取りなどの目的で逃走防止を兼ねて四六時中付く事。
でも…やがて私はこの学園の中で派閥形成し、この「地獄の雑巾掛け」の陣頭指揮を取る真面目な園生に「皆の為も考えて雑巾掛けの回数を減らせや」と半ば脅す様に持ちかけ、長い廊下を雑巾掛けで往復するカウントを誤魔化す様仕向けたものでした(笑)
洗面時間などもことさらに設けられておらず、毎日押し合う様に僅かな時間で洗面と歯磨きを済ませ、週に2回程の入浴も使用して良いお湯は「桶で3杯まで」と定められており、これで洗体からシャンプーまでの全てを済ませなければならず、経済観念から自立までを見越してのルールなのでしょうが、それでも慣れてくるとたった3杯のお湯で全て出来る様になるのが不思議でした(笑)
 若き日の自叙伝の様な話しになってしまいましたが…何を言いたいかと言うと、こうした裏社会に生きた私にとって、口の中でよく噛む「咀嚼」などと言う食習慣は思いもよらぬ事だったのです。でも、振り返って見れば、その世界に生きた当時、金銭が底を付いて借金を約束の期限に払えぬ事から当時極道だった私に依頼があり、冒頭のツケ馬の如く人を追い込む因果な仕事も随分としたものでしたが、目の下にクマを作って金を借りる相手を探してさ迷う人間の姿はさながらゾンビの様でもあり、食事などを共にしていても、金銭の怖れから目も虚ろでただ胃袋を満たす様に口に入れて飲み込んでいるかの様で、「貧すれば鈍する」とはよく言われる事ですが、借銭と欠乏、貧困、暴力を行使されるのではないかと言う怖れ(金を返せない事から)に乗っ取られた人間は、胃に穴が開く様なストレスを感じる事から、胃のただれた腐臭と言うべきか、獣の様な口臭さえしていたものです。
また、アルコールや薬(覚醒剤)に溺れ落伍して行く人間なども、薬や酒が身体に入っている内はリアルを気取っていても、それらの効果が薄れてしまえば、怖れが生じ、やはり口から物を入れてもただ惰性でそれをしているに過ぎぬかの様に虚ろで泳いだ目をしていたものです。
私はこの様な様々な人間模様をアウトレイジな世界で見てきたものですが、密教僧侶ヒーラーとして活動する現在も、セッションで訪れる人の中に程度の差こそ角度の違いこそあれ、様々な怖れがあるものをお見受け出来る時があるものです。
生活苦など様々な強い怖れが生じている人などが私の元を訪れ、精神的に落ち着きを得る為人から瞑想や座禅を勧められたものの、「目を閉じた途端にいても立ってもいられない怖れや焦りを感じてとても集中出来ない」と話してくださる方などもいたものです。こうした方でもスピリチュアルカウンセリングやヒーリングをして行く内に穏やかな表情になっていったりするものですが…
こうした方の傾向として「咀嚼不足」があり、胃腸のトラブルを抱えている場合も多いもので、何らかの不安から口に食物を入れても頭の中を怖れで乗っ取られ、何を食べたのかさえ分からない状態でよく噛みもせず飲み込む様に食生活を送っている人は今の時代とても多いのではないでしょうか?でも、これでは毒を飲み込んででいるに等しいものがあるのです。
私も現在は僧侶ヒーラーであり早メシが習慣だった極道ではありません(笑)以前に比べたら何倍も咀嚼して食事を摂る様になりました。
(一口入れたら40回位は咀嚼します)よく噛んで食べる行為は、単に胃腸へのストレスや負担を減らすばかりでなく、あらゆる病気の予防に繋がるものがある事に於いて抜群なものがある様です。

ご飯を食べたなら米粒の甘さが口に拡がるほどによく噛んで食べる…。

咀嚼が身体に良い働きをもたらす事は多くの方が知っています。
でも、咀嚼が、今この瞬間この時に生きる為のちょっとした訓練になる瞑想である事を理解する人は少ないのかも知れません。
食べる物の触感や味覚を舌の上で味わいながら食べて見る。でも、いくらもしない内にマインドはランダムに様々な画像を脳裏にもたらして、舌の上から意識を離してしまうものです。これなども瞑想などにおける雑念と同じなのですが、ならば一口ごとに40回は咀嚼すると自らに課して噛む事を義務づけたらどうでしょうか?
これでさえも噛んでいる内にフワフワと何処かへ飛んで行ってしまいがちな自らの思考に気付かされるかも知れません(笑)でもこうした事に気付く積み重ねが怖れにとらわれず精神の安寧を築いて行く上でとても大切なのです。
噛む事が習慣になってくると、それこそ食材を味わいながら堪能出来るわけで、ただ噛まずに飲み込む時とは違い満腹感が訪れるのも早く、食べ過ぎや過食を防ぎ、便秘を解消する働きもあるなどダイエットに直結するものさえある様です。
そして、咀嚼する習慣が、食べながらにして怖れにとらわれない「思考を見張る働き」さえもたらすもので、怖れなどからフラフラ答えの出ない画像にとらわれるパターンから思考を引き戻す働きさえあるものです。
たかが咀嚼と考えるのは大きな間違いで噛まずに飲み込むかの様な食生活がどれほど内臓に負担をかけているのか?病気になって手術台の上で気付く様では遅すぎると言うものかも知れません。

ぜひ噛む瞑想であり健康法と成り得る咀嚼を習慣とされてみてはいかがでしょうか?

                              合掌
  
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