万引き地蔵

 
 
※写真はタイトルとは関係ありません。
 
昔、満月時のセックスへの欲求と、万引きする事への衝動が、ワンセットの様に訪れる事があると話してくれた女性がいたものです。
 
先日、加持祈祷をお願いしたいと言う女性からの電話に、どの様な依頼なのか尋ねると…
 
内容は「ワケあり」で会って直接お話したいと言うこの女性でしたが…
混乱や恐れで、心ここにあらずの状態がその人の声の状態にありありと現れている様に感じられたものです。
 
一般的に透視と言うと、人のオーラやエネルギーを見ると思われていますが、電話などで耳より入ってくる人の声音と云うものも、その人の今置かれている精神状態は勿論、その人の生命エネルギーの変化(死期が近い事等)や、オーラやチャクラなど、その人の現在のテーマとなっているエネルギーセンターの滞りなどを、如実に伝えてくる時があるものです。
 
まだ私が加持祈祷をお受けすると返事もしない内から、1ヶ月の遠隔加持を頼みたいが、料金の半分を着手金として、残り半分は成功したら払う形にして欲しいと電話の向こうで話すこの女性の目論見は、どうやら裁判勝訴の祈祷の様で…
 
「料金の事はともかく、あなたのお話しを聞いていると、私のところなどより弁護士事務所に電話された方が良いのではありませんか?どの様な係争の内容かは知りませんが、加持祈祷で裁判の結果をあなたの望む様にコントロールするお約束など出来ませんので他をあたってください」と断ろうとすると、会って話だけは聞いて欲しいとの事で、裁判勝訴などと言う事よりも、この方自身の根の深い問題だろうな?などと思いつつも、取り合えず話だけは聞いて見る事にしたのでした。
 
その日、午後から親子で来た方へのヒーリングセッションを終えて、この電話の主と待ち合わせの為に駅に向かった私でした。
駅の改札で高齢と思われるこの女性と挨拶もそこそこに私のサロンへと向かったものでしたが、向かう車中では、亡くなった霊能者の宜保愛子の名前から祈祷師や私と同じお寺の一門の占い師の名前までを挙げ、あげくの果ては自分自身の華やかだった若き日の自叙伝を数枚の用紙にコピーしてあるので読んで欲しいとか、自分自身が本来なら「教祖」になるべく存在でもあったと虚言癖さながらに語るこの女性に「あなたが教祖ですか…」と問い返すと、「ええ、でも、その、今は悩める一人の弱い人間ですけど…」と前言を引っ込めるこの女性、
 
この期に及んでは、まだバブル期の頃など、億兆の金額が動くと、明らかな詐欺ばなしを、一流ホテルのラウンジなど、舞台設定だけは抜群に、インチキな書類を見せながら、さもありなんに語っていた老齢にさしかかった女性詐欺師の姿などを思い出したもので…車のハンドルを握りながら思わず苦笑いの出た私でもありました。
 
こうした人間を当時極道の世界にいた私などは「豆腐屋」と呼んで馬鹿にしていたものでした。
 
※「豆腐屋」とは、豆腐を一丁と数える事から、一兆、二兆と、億兆の金を無担保で融資を受けられるなど、バブル期にM資金と呼ばれた詐欺話に暗躍した欺師師などに対する蔑称。真面目に豆腐屋として勤しんでいる方には申し訳ない隠語でもあります。
 
駅で一目この方を見た時からそれが遠隔であろうと対面であろうと、セッションをすべき相手でない事は直感に訴えてくるものがあり、自坊までの車中、齢も71才のこの女性に、大きなお節介よろしく、喝を入れるかの様に説教など垂れる事のない様に自らに念じていたものでしたが…
 
自坊に着きお茶をすすめると、この老齢の女性は堰を切った様に話し始めたものです。ソファーに座る時、この女性に重なる様に座る男の姿が見えたもので、それは何か時代劇に出てくる様な「お頭、おかしら」と呼ばれる泥棒の頭目の様な影ある姿に映ったものでした。
 
この女性が言うには、一年近く前になる某大手スーパーでした万引きがここへ来て事件として立件され、裁判になる事などを話し始めたもので、言葉巧みに警察へ出頭させておきながら調書では万引き歴も今まで2、3回しか無いと供述しているのにも関わらず、調書では「20回~30回万引きした」と 書かれた事や、刑事から「刑務所に行かない様に祈っているよ」と嫌みを言われた事に憤慨している様で、その他にも精神病院に若い頃数度入院した事、それを裁判の有利な条件として使いたいが病院の記録も取れそうにないのでどうしたらいいのか悩んでいる事、かと思えば、数年前にボランティアで自分の家に出入りした人間から物や金銭を盗まれた事を話し始め、「盗む人間は言っても改まらないですからね、本当に」と自らの境涯はさておいて真顔で語るこの女性…
 
以前、万引きで罰金刑になった時も盗んだ品が介護用品か何かだった為、国選の弁護士より同情的とホメられた事などもあっけらかんと語る母といくつも違わぬこの女性を見ている内に、私は何故か無性に悲しくなってきたものです。
 
この女性が、延々と語り続けるのを遮る様に「〇〇さん、要するに私に頼みたいと云うのは加持祈祷で裁判で相手(スーパー側)を退けて勝ちを収めて刑務所には行きたくないとそう言う事ですか?」と私が単刀直入に言うと「えっ!ええ、はいそうです」と答えるこの女性でしたが、次にこの女性に重なる様にふんぞり返って座る泥棒の頭目の様な影に向かって…
 
「警察の調書で2回や3回の万引きを20や30に書かれて腹が立ったと言うが、警察の調書ってそんなもんだよ、それにあなたそんなものじゃないはずだよ、正直に言って見なよ?いつから始めたんだい(万引きを)」と水を向けると…
 
「ええ…実は20年、30年になります」と答えたもので、「30年と言えば職人だね」と、私が思っていた通りの長年の盗癖の垢を口に出したものです。
 
でも、思えば私なども裏社会から抜け出して僧侶となりヒーラーとして活動するまでには、神仏との関わりに於いても、お寺などでお不動様(不動明王)に手を合わせ、当時と云うのは「オヤジ、アニキ」と自分を慕ってついてくる人間が警察に逮捕されたり指名手配になどならぬ様にと、因果を無視した傲慢な願い事をしていたもので、目の前に座るこの老齢の女性と五十歩、百歩の違いしかない時もあったのです。
 
でも、この女性には時間が残されていない様に思えたものです。
 
30年も万引きをしてきても今まで罰金や執行猶予程度で済んでいる事自体が奇跡でもあるのですが、年老いても懲りていないからこそ、内面から変わるものがないからこそ、ここへきて一年も前の万引きを事件として立件される憂き目にあっているのであり、長年の万引きをしていた自分が必要必然の理から招いている事象である事など、この女性には思いあたるはずもなく、人生の挽節にきて刑務所に服役しなければならない危機感だけが、物音に驚いて跳び跳ねる子馬の様にこの女性を支配しているかの様でした。
 
「今まで、あなた万引きする度に寂しくなって怖くなって、どこへ行っても人の目が自分を見ている様で気になって行ったのでは?」と聞くと「ええ…最近は普通に暮らすって事がどれだけ幸せなのか身に染みる様に感じる時があります」と殊勝な答え、でもすぐその後で、もし刑務所に行った場合、年金で暮らす自分の住むゴミ屋敷と思われる部屋の維持や、自分を助けてくれている妹には裁判になった場合、傍聴ではなく証人として出廷してもらい裁判を有利に進めたいなど、我が身の保身ばかりが口をついて出るばかりで、自らのこれまでを悔い改める言葉がないのです。
 
極道当時の私なら自らの逸脱を悔いる事のないこの女性の姿を「懲りない面々」と犯罪においてさえ時には確信犯なヤクザと重ね合わせて感心したのかも知れませんが、送り出したものは実体験や気付き、心の痛み、いずれの形を取ってでも受けとらなければならない因果律の外側にいる人間は誰一人いない事を理解した現在では、刹那的でエゴそのままの無軌道な滅びの美学に酔う事もありません。
 
「何が教祖様なの?何が自叙伝なの?ここへきて何が問題の根っこにあるのかしっかり気付かなければ〇〇さん、あなた今回は運良く執行猶予で刑務所に行かずに済んでも、また一緒だよ。
 
自ら悔いる事もないあなたの懲役から逃れたい片棒を担ぐ為の加持祈祷なんてとんでもない話で、それをやったら私が倒れてしまいます。お断りします。神仏さえも都合よく利用し様とするご自分の心根にどうぞ気付いてください。
 
年老いたあなたには気の毒だが、刑務所に行くもんだと腹は括っていた方が良いと思います。今のあなたには加持祈祷もヒーリングも違う、生きながらの地獄はあなたの心の内に原因があるんですよ。もしあなたが裁判での奇跡を願うなら、裁判の席で涙を流して土下座せんばかりに今までの自分を悔いて詫びる事かも知れないね。それも演出ではなく腹の底からのそれでなければダメだね。。
 
ここがこれからのあなたの柱にないと妹さんに何を裁判で陳述してもらったところで意味をなさないと思います」。と話の終わりを促した私でした。
 
お年寄りでもあり、周りも暗くなった事から駅まで車で送ると言うとお礼と共にバスて帰りますとの謙虚な答え、でもその後で「センセイ、やっぱりヒーリングと御札は効くんでしょうか?」と聞いてくる始末(笑)
 
私の言う事がこの女性にどこまで響いたのかはわかりません。普通に考えれば、長年の万引きの盗癖がある上に精神疾患の兆候のある人間に何を話したところで馬の耳に念仏で、ただ時間の浪費と偽りのヒューマニティーを満たしているに他ならないと言う見方も出来るものです。でも、やはり理性を超えた何かのタイミング、ご縁が生じて私の元を訪れた方の様に思えたものです。
 
聖霊(ハイアーセルフ)は時に色んな人の元へ背中を押してくるものです。私達人間は人との出会いに於いてさえ何かを与える事が出来たとか、何を受け取る事が出来たとか、結果を重視する傾向があるものです。それは例えばヒーラーやカウンセラー、セラピストの世界にさえ反映されるものがあって、自分のセッションにそぐわない人や未消化な体験を許せない、受け入れられない、相手の未成熟な状態とジャッジし切り捨てる事でかえって自らのセッションに停滞を招いてしまうケースなどもある様です。
 
目の前にある人にどの様に作用したとか、どの様なものを対価として受け取ったかと言う事よりも、何を元にその人を見ていたのか?それは愛なのか?恐れからなのか?人への向き合う姿勢、その場に立ち会う自分が人をどの様に見ているのか?起承転結の見事についたセッションの結果などよりも、聖霊、内なる神はここにいつも着目し注意を向けているものを日々私は感じたりします。
 
そう思うと、器、入れ物は違っても、その時々目の前に現れる人が自分に、様々な気付きや学びをもたらすお地蔵さんの様に思えてならない愚僧であります。
 
      
                      合掌
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