上野護國院から大宮氷川神社へ

 
 
 
 
昨日は上野入谷にある天台宗のお寺、東叡山 寛永寺 護國院を訪れました。
 
護國院は大黒天をお祀りしている事でも有名なお寺ですが、昨日2月6日は大黒天のご縁日である甲子(きのえね)の一年最初の「初甲子(はつきのえね)(はつかっし)とも言う」にあたる事からたくさんの方がお寺を訪れていました。
 
護國院は、東叡山寛永寺の子院のひとつで、寛永2年(1625)天海僧正により東叡山が開かれたのと同時に、同僧正の命を受けた開基生順によって東叡山最初の子院として建立されたと言う古い歴史を持つお寺です。
 
※天海僧正を明智光秀とする説も現在根強いものがあります
 
 
 
 
 
 
護國院は私にとっても思い出深いお寺でもあります。10年以上前など、もうすでに極道の組織からは抜け出ていたものの、まだアンダーグラウンドな世界に棲んでいた頃で、裏社会に生きる事の儚さ、諸行無常をまざまざと自分の中にも、他者の中にも垣間見ている頃で、裏社会に執着し何とかその世界で生き残ろうとする理屈や正当性を自らに与え様とする私を、あますところなくお天道様に見つけられ、一つひとつ、ダメだしを受けている様な、そんな感じさえしていた頃でもありました。
 
何気なくTVをつければ、服役の過去のある方などが非行少年の矯正に向けた活動や教師としてのサポートをしている番組や、闇から光へ転身した、そんな人の活動を紹介する映像ばかりが目に入ってくる様で、「見えざる何者からか何かを突きつけられている」様で気が重くなったり、表を歩いていれば日に何度となくお坊さんとすれ違う事も多かったり(全て私の引き寄せていた事)裏社会への郷愁を残しながらも、どこかでそうした生き方に終わりが来ている事を分かっている自分…そこに深いところから湧き出る「真実に生きる」と云う気付きが自らの中でせめぎあい、葛藤を感じる事の多かった時期でもあるのです。
 
そんな時期に私は自然とお寺に足が向く様になったもので、お不動様(不動明王)には以前からとても親しみを感じていた事から、不動明王などの縁日などに護摩を焚く密教寺院(天台宗、真言宗)を訪れる様になったもので、護國院もそんな頃に訪ねたお寺の一つでもあったのです。
 
 
 
久し振りに訪れた護國院でしたが、お寺の歴史を感じさせる内陣を見ている内に、まだ迷いの季節にあった頃、このお寺を訪ねた自分の想いがフィードバックしてきた様な気がしたものです。
 
「な~ま~さ~まんだ~ば~さらなん せんだん ま~かろしゃな ~そわたや うんたらた ~かんまん」と…
 
護國院のご信徒の方達が唱える天台宗の不動真言が堂内に響き渡る中、住職の焚くお護摩の炎が赤々と燃えていました。当年88才のご住職、お護摩を一座終えてのお法話で、自らが高齢で動作が緩慢であり、時間がかかって申し訳ないと言う意味の事を訪れたみなさんに話されていたものです。
 
確かに大きな寺院で見られる様な、法楽太鼓もけたたましく若い僧が焚くお護摩とは違い、勢いはなかったかも知れません。でも、全てを削ぎ落としたかの様なそのエネルギー、言い換えるならば、いつ向こうへ旅立っても良いと腹の定まった方と言うのは、凛とした姿にもそれが後光の様に現れるものです。
 
この住職が大黒天を修法の中で観想し、招請した時、この日私に同行していた方もお堂いっぱいに大黒天の姿が拡がるのを感じたと話していたものでしたが、88才と言えば戦時中は学徒動員の世代、戦中から戦後、昭和から平成をあまねく眺めてきた人生の大先達でもあります。
 
 
身体の動く限りは続けたいと言葉を締め括った護國院の住職でしたが、膝の屈伸を伴う三礼(さんらい)と呼ばれる本尊への礼拝作法も丁寧に、その姿には仏法を通して自らに向き合ってきた真摯で丹精なものを感じるばかりで…
 
坊主の階級ばかりが高くとも、中身を感じない方など屁とも思わぬあまのじゃくな私ですが、ようよう50を過ぎた私などは、まだまだ若造で小童ではないかと…戒めと共に励みにもなるその姿でもありました。
 
 
 
 
護國院を訪れた後は、お正月にご挨拶に行けなかった武蔵一宮 大宮氷川神社へ出向き、昇殿参拝を済ませ、これにてご縁を感じる神社への年始のご挨拶も済ませ、本格始動の思いも新たに、帰路に着いた愚僧でした。
                                
 
 
 
 
 
合掌

 

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