☆ヒーリング私記…宗教とスピリチュアルの狭間に見るものとは?②

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今までに、「正仙さん、信者を募り、定期的に親睦会を設ける様な○○の会を作ってはどうですか?もしくはお弟子さんをお取りになっては」と私に勧めてくださる方などもいたものです。

私などは檀家のいる寺持ちの坊主ではなく、ヒーリングやリーディング等のセッション、加持祈祷や浄霊、引きこもりや鬱、家庭内暴力などの問題に悩むご家庭などへのサポートと、その活動も特化されたものがあり、私自身、一代限りの坊主で良いではないかと思っているところから、ご好意は有り難いものの、こうした事を言われてもピンとくるものがなかったのです。

自分を商品と見立て、旬の内に売り出し、会員やシンパを募り課金収入に繋げる考え方は、宗教、スピリチュアル、自己啓発の世界だけのみならず、美容からマルチ、ネットビジネスの世界にもあまねく普及している考え方とも言え、箸と茶碗と実存を賭けてそれぞれが為されている事において、是非の論議は避けたいところですが、結局のところそれは「ほらほらそこ行くそこの人、あっちへ行ったらあかん、こっちの水は甘いよ」とばかりに、隣が青ならこちらは赤、隣が黄色ならこちらは緑と言った具合に、目を引く商品を陳列し、人を取り込み括りあげる競争や商戦を繰り広げている事に他ならない事でもあります。

人間、霞(かすみ)を食べては生きて行けず…誰しもこうした力学の支配する娑婆(しゃば・人間世界)に生きて、職業に抱いていた理想が潰えたり、優劣を競い争う世界モデルに矛盾を感じたり、自分を切り売りしている様な消耗を感じたりと、端から見れば何一つ不自由無く豊かさや成功を手にしている様な人であっても、何かしら満たされぬ心の渇きや虚しさを持って生きていると言うのも、この世に生きる人間の実相と言うものかも知れません。

こうした世界モデルに生きている私達人間、それがビジネスであろうと、何らかのコミューンであろうとも、利益を上げる為などの名目の元に、中心となる人間に自分ではない偽りの虚像になる様に強いるエネルギーも時として作用するもので、こうした事が本人はおろか、関わる人にも様々な無理や疲労を生じさせ、争いや仲違い、対立に向けさせるのも、この私達の生きる娑婆に張り巡らされたエゴによる振り子の法則なのです。芸能界のタレントとプロダクションの争いなどに、これが分かりやすい形で現れる時があります。

私が過去にいた極道の世界では、親分、子分の関係を発生させる盃事と言う儀式に於いて、媒酌人より「親が黒いものでも白と言えば、それはすなわち白です」と言い渡されるそんな世界でもありました。それはヤクザとして生きて行く上で、納得の行かぬ事や我慢の出来ぬ事、不条理さえ飲み込んで行く事を宣告されているに等しいものがあるのですが、こうした自らの生殺与奪権を人に預ける世界に生きて行く事は、人間が生涯で経験するであろう、人を崇めたり信奉すると言う事の命数を使い果たしてしまうかの様であり、親分と呼ばれる人の豪放磊落で求心力のある人柄に魅力を感じる事もあれば、その日で変わる言動や駆け引きから来る腹黒さ、執拗な攻撃性や暴力などを、自らの内にも外にも見せられる日々が続いたりと、かつての師僧がヤクザの世界を「修羅の行・しゅらのぎょう」と看破するかの様に言っていたものですが、これなども言い得て妙であります。
私の当時を振り返って言えば、一つトラブルを解決すればまた違うトラブルが発生すると言う具合に、落ち着きを得る事の許されぬ極道の世界で、リアルでありたいと闘い、もがいていたと言うのが本当のところの様な気がします。

その世界の駆け出しの頃に「ヤクザの親分は我儘(わがまま)な生き物と思え」と諭してくれた方などもいたもので、この言葉も今となっては、ヤクザばかりではなく、人間のエゴを現す名言と思えるもので、人間が決して聖人君子などではない赤裸々な現場を垣間見てきた事などもそこにオーバーラップし、人を神と崇めたり、自分を明け渡す存在として見ることなど出来ないものが根強く残るものなのかも知れません。

一般の方がスピリチュアルや自己啓発などのセミナーに参加したなら、講師の方の話を聞き逃すまいと一生懸命に傾聴するに違いありません。でも、もし…「レンコンを食ったヤクザ」がそうしたセミナーに参加したならば、少々着目するところが違うのかも知れません。

※「レンコンを食った」とは、場面を踏み年季の入っている事を現す隠語

セミナー会場に入るなり、客の入りからどれくらいの収益が出ているのかを憶測で計算したり、講師の話に齟齬が見られないのか?、どこにセミナーで人を引き付ける落としどころを設けているのか?物販でどれだけの利益を上げているのか?つけ入る事のできる違法性はないのか?はたまた、講師とラブリーな視線を交わす愛人が会場に来ていないか(笑)など、勿論、そのセミナーの内容の素晴らしさに驚嘆する場面もあるかも知れませんが、その傍らでは、揚げ足取りの観点からも見ていくに違いないのです。かつてはヤクザを隙間産業とする見方も世間にはあったりしたものですが、基本ヤクザと言うのは、物事をネガティブサイドから採点して行き、金に成るのか成らないのかを嗅ぎ取り、自分が関わるべきか否かを瞬時に判断する習性がある事に於いて、ただむやみに乱暴を働く人間や、無軌道な通り魔殺人などを犯す人間とは、全く異質の世界の住人であります。

かつて、オウム真理教の麻原を指して、目が悪く、目が殆ど見えない為か、五感を駆使して相手の弱点を探す能力に長けていたと言う意味の事をコメントしていた元教団幹部がいました。違う世界の事の様ではありますが、極道の世界の「掛け合い」と呼ばれる対組織の交渉に於いても、話しの上で下手を売れば、相手の要求通りの金を払わなければならないケースや、場合によっては倍返し、指を詰めなければならないなどの深刻なペナルティを伴う場面もあり、そんな場に於いては、それこそどんな理屈を付けてでも形勢を挽回しなければならない為に、五感をフル動員して話しに臨んでいる感覚さえあったものです。※「下手を売る」(へたをうる)とは、失敗する事、負ける事などを指す隠語。交渉事で相手に呑まれて譲歩する事を「安目を売る」(やすめをうる)などともその世界
では形容したもので、サイコロ博打のサイの目の高目、安目に語源がある様です。

こうした事に加えて、私の場合、子供の頃から、人の心がわかってしまう様な、特に人の裏切りや心変わり、子供の頃であればクラスの片隅で誰かをイジメる相談が小声でなされている事までをを何らかの形で敏感にキャッチし受け取る事が多く、そうした繊細な直感の部分が、自分自身、嫌で嫌でしようがなかったものです。でも、こうした元よりあった繊細な感性と言うものが、危機回避を含め、相手のウィークポイントを探す能力と言うものに発揮されていた部分でもあったのです。
でも、それはその時々の自分の置かれた利害を伴う都合で相手をジャッジする事に於いて中立なものではなく、自らの影(シャドウ)を通して発揮されていた事であり、恐れから派生させていた能力でもあったのです。

人の危うさばかりに目が行き、美点を認められぬ事も、自らの潜在意識の奥深くにある恐れを源にした影(シャドウ)から派生していた事、これはヒーラーとしての気付きと学びを深めて行く中で、私自身何度となく直面した課題でもありました。ヒーラーを志した当初など、私は人の欠点やアラ探しをする自らの性癖にどれだけ怒りや停滞を感じたか分かりません。でも、地に足を付ける瞑想グラウンディングから、自らのエネルギーの洗い出しとでも言うべき、思考や感情のクリアリングやオーラやチャクラの浄化を、一年365日習慣として行う事により、ようやっと安心が訪れ、愛ある物の見方や人の美点を認める能力にそれを昇華させる事が出来た様な気がします。

誰しも一夜にしてマスターになりたいのかも知れません…。
でも、過去に極道の世界にいた私にとって、まずはヤクザ当時の心の垢を落とし、本当の意味で堅気のエネルギー(思考パターン等も)になるまで、繰り返し自らの闇の部分を内側から落とす作業こそが大変な事で、クリアに悟った様なつもりになれば、不意討ちの様に怒りにとらわれたりと、一敗地に塗れた様な気持ちにさせられた事も度々ありましたが、今となってはそれこそが自分の学び、赦しのレッスンでもあった様な気がします。

私は密教僧でもある事から、仏教に根差した教化指導や法話、帰依を勧める姿勢が、本来あるべき姿なのかも知れません。でも、私などは、真言密教の開祖であり、お大師様の名前で親しむ弘法大師空海が好きで尊敬もしておりますが…でも、それは私の事であって、人それぞれ信じる神や仏の姿は多種多様なものがあって良いと思うし、勿論宗教なども他の方を侵害するものでなければ、信じたい形態のものを信じれば良いと思ってしまうのです…。
勿論、仏道にそれを求めてきた人のサポートやお手伝いはさせて頂くにしても、元極道の世界にいた私がアプローチすべき事はむしろ…

「全てを疑ってかかれ!」と言う心の眼を養う事なのかも知れません。疑ってかかれなどと言うと、ネガティブと捉えられる方もいるかも知れませんが、トリッキーだったり、斜に構えた物の見方ではなく、しっかり自分の中心にあって中立な見地から物事を見る事の出来る心眼であり、それは安心に裏打ちされたものでなければなりません。

私達人間は尊敬する人や影響を受ける人を無条件に受け入れ、その人の持つ声音、容姿、雰囲気、話術に酔う傾向さえあるもので、逆に嫌いで嫌悪感を催す相手に対しては声一つ、話し方一つでさえ不快を引き起こす原因となるなど、端的に一つとって見ても、価値判断、ジャッジを習慣としている生き物でもある様です。
それも肉体を持つ自分自身の快適さに照らして価値判断している事など、心の垢とでも言うべき恐れを浄化して行く時、自分に強い刷り込みやプログラミングされているものがある事に大きく気付かされたりで、人に対しても優しくなり、生きやすくなるものです。

地球の中心、母なる意識と繋がる瞑想グラウンディングをし、エネルギー、心身の安定した状態から内なる神ハイアーセルフとの繋がりを強化し、真の自分の羅針に従って生きる…こんなところにもヒーラーとして関わる人へのサポートとして、私のテーマにある様です。

※ハイアーセルフとは、内なる神、高次の自己とも言われ、今生での課題やカルマなどを統轄している誰しにもある聖霊の事。

私などはもし、死んであの世に行ったならば言葉が悪いかも知れませんが、僧侶の法衣さえ剥ぎ取られ、何者であったのか?何を意図して生きたのか?ただそれだけを問われる様な気がしています。

性別、美醜、貧富さえ何一つ持ち越してあの世と呼ぶ世界に行く事が出来ないとしたならば、この現世で何を尊んで生きるべきなのか?勿論、大いに肉体を持つ人としての生を楽しみ謳歌する事も大切かも知れません。でも、この現世で尊ぶべきものを知っていながら遊ぶのと、カオスなゲームが真実だと思い生きて行くのでは、心の平安の上で雲泥の差が出るものを感じる愚僧でもあります。

合掌

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