★身体と言うシンボル…覚者の最後の言葉に見るものとは?

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先日の事…

仏陀以来の覚者と言われ、キリスト以来の最も危険な人物とも評され、世界各国はもとより、この日本でもその優れた瞑想法や独特の死生観、鋭い人間のマインドへの洞察と言うものに影響を受け、没後25年を経過した今でも帰依する方の多い、瞑想の巨人とでも言うべき方の臨終間際の言葉を、ある方が私に教えてくれたものでしたが、それを聞いていて私は「なるほどな…」と、妙に腑に落ちるものがあったものです。

仏陀やガンジーに並んで、インドに強く影響を及ぼしたと言われるこの方の著書に影響を受けて、瞑想やスピリチュアルな分野に進んだ方は多いに違いありません。私なども得度する前など瞑想に興味が湧き、この方の著作は何冊も貪る様に読んだ時期がありました。

この方の全ての著書に一貫して流れる「トータルに生き、トータルに死んで行け」と言わんばかりのその内容は、時にユニークでシニカルな論調の中にも、宗教の弊害や虚無、矛盾さえざっくりと斬る独特のものがあり、日常の混乱から死を目の前にした時に至るまで、恐れる事なく事態を見つめ、マインドから脱出する為の瞑想の在り方を説く他にも、覚醒に至る技法や変容に至るテクニックが散りばめられ、政治や経済にまでその提言は及び、精神世界の分野に限らず、人間指南書としての趣のあるその著書は、私自身、今でも読み返して感慨を新たにする時があるものです。

私がこの方の著書を読んで素晴らしいと思ったのは、現代社会に生きる私達にとってアンチテーゼであり忌むべきものである死と言うものを意識の表に引っ張り出し、「本来死と言うものはなく、死んでも意識は継続して行くのだから恐れる必要はない」と言う事を、瞑想の技法をからめて言葉や表現を変えて繰り返し書かれている事にもありました。
瞑想やマインドの働きを知る事により、恐れる事なくエゴや執着を手放し、意識的に死さえも受け入れる事が出来る様になると説くその内容は、病気や様々な混沌の最中にある人にも生きる勇気や希望を与えるものでもあります。

その一方で、この方は偶像崇拝などについても触れ、大人が神仏の像を「あれが神だ!」と指差し子供に教える時、子供にとってそれが絶対無二の神の姿としてマインドに刷り込まれる危険性がある事を指摘する一方では、仏像などは形あるものから形なきものへジャンプする為の架け橋の役割をしている事などにも言及していたもので、密教僧でもある私は、加持祈祷の観点からもとても共感できる内容が随所にあったものです。

そして人と言う「生身の偶像」にもその考察は及んでおり、インドを代表するいにしえの聖人達からアインシュタインの様な科学者に至るまで、その虚実を斬りつける論調は、穏やかながらも独特の死生観に裏打ちされており、とても引き込まれるものを感じた私でもありました。

でも…世界の瞑想教師や禅を愛する人々から師と仰がれ、仏陀やガンジーに比肩する覚者とさえ言われたこの方の人生も、その晩年は波乱に満ちたものだった様です。
インドからアメリカへ移住し、五千人もの信者によるコミューンを形成し、正式な市として認められるほどになったものの、経済大国アメリカを挑発する事に意図されたと言う、100台にも登ると言われたロールスロイスの所有や、時にトリッキーとも思えるその発言がセンセーショナルに取り沙汰され、次第に問題視される様になり、そこに弟子同士の反目や離反、背任や横領、殺人未遂などの事件、沈黙を守っていたこの方自身も自らコミットメントを発し、弟子の所業を糾弾するも、それはかえって米国にこのコミューンの解体への口実を与えるキッカケとなり、この方自身も逮捕投獄され、揚げ句の果ては国外退去に付され、世界各国からも危険人物として入国拒否の憂き目を見たのです。

最後は古巣とも言うべきインドのアシュラムに帰り、講話を再開し世界各地から瞑想を求める多くの方の訪れを受け活況を呈すものの、米国での逮捕投獄以来、衰弱著しいものがあった様で、その後数年して亡くなり、その原因として、米国の拘置所をたらい回しにされている時に毒を盛られたり、強制被爆させられたのが原因等と諸説飛び交い現在に至っている様です。

話しの冒頭に戻りますが、この方は亡くなる前に、サニヤシン(出家者)と呼ばれる弟子を目の前に、自分の在り方を詫びたと言います。皆それぞれがいずれマスターになるのであり、自分の着た衣服や使用した物や歯なども、形見分けする事なく一切廃棄して欲しいと言う意味の事を言ったとも…
その場にいたわけでもない私が、正確な内容を記す事は出来ませんが、この覚者の側にいた方から伝え聞いたと言う内容を私に話してくれた方の言葉を聞く内に、私が透視ヒーリングの学校に通っていた頃、そのスクールを主催していた外国人講師が授業の中で、「アメリカで100台もロールスロイスを所有した狡猾なグルがいた」と言う話しを少し顔をしかめて話していたのを思い出したものです。

実名こそ出さぬものの、アメリカでロールスロイスにグルといえばこの神秘思想家しかおらず、ピンとくるものがあった私でしたが、人間の自由意思を尊ぶこのスクールの外国人講師の言葉に、この瞑想の巨人が、多くの人間を縛りにかけカルマを作り上げたと暗に指摘している様に思えたものです。

スピリチュアルなコミュニティや集まりこそ、人間関係の分裂や対立が発生しやすいと言う逆説があるのをご存じでしょうか?
それはそうしたコミュニティや集まりは、スピリチュアルに名を借りた何らかの癒されるべきカルマや課題を持つ人が集まる傾向があるからであり、癒しと聞くと、気持ちの良い事や恍惚感さえ連想する方も多いかも知れませんが…人間関係に於ける対立や断絶を経験し気付きや学びを得て、失意から立ち直って行くのも癒しと呼ぶべきものであります。

カルト教団に於ける教祖と信者の関係、教団内部に於ける派閥争いや暴力事件などの発生、挙げ句の果ての教団の瓦解なども、ニュースで取り沙汰されているのを見ると、スキャンダラスな事件性ばかりが際立ちますが、こうした事件の陰にも、気付きを得て、縛りから解放され、深い癒やしを経験している人の姿があったりするものです。

すでに亡くなられて久しいこの方の心情を知る事は出来ませんが、多くの帰依する方に担がれてしまった時、指導者と呼ばれる多くの人間が同じ顛末を辿る様に、多くの人を目の前に、型にハマった事しか言えなくなる制限された部分や、霊性に名を借りてでさえも、人間を対立や争いに向けるエゴと言うものを、エゴからの解脱を説く自らが体験せざるを得なかった事に、一抹の悔いと言うものもあったのではないかと私には思えたものです。

自らが死を迎えるにあたって、「皆もマスターなのだから、私の遺品や姿を崇拝などする事などない様に」と、肉体を持ったシンボルとしての自分を弟子達が崇め奉る事の無き様、師として最後に突き放す言葉へとそれは帰結したのかも知れません。それは肉体や姿などのシンボルではなく、「教えこそ共有すべきもの」と仏陀の残した言葉でもありました。

「寺は大きくしてはいけない」とはお寺の世界での心を失う事を戒めた言葉ですが、物質世界の煽りを受けて、まるで覇を競う様に、実情はこの逆を行くかの様な日本の宗教世界でもあります。

どこかしら覚者などと言う言葉の枠には収まり切れない、アウトローでユーモアでありながら叙情的なものさえ感じるこの方の著書の論調が好きな私でした。

一期一会…密教僧としてヒーラーとして、どこまでも個々への心のお手当てを大切に活動して行きたいと願う愚僧であります。

合掌

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