★「ジャッジをしない」の言葉の奥にあるものとは?

10352084_780724472020017_61244108875.jpg

感情のままに泣いたり、時には側にいる人を罵ったり、混乱の渦中にある人を見た時「きっと今、彼(彼女)も大変な時なのでしょう…静かに見守ってあげようよ」とは、暖かい人の見方でもあります。

スピリチュアルにたずさわる方の中にはこうした優しい視点を持つ人は多いものです。

「ジャッジをしない」とは、人が心豊かに生きる為の心得としてよく言われる言葉でもありますが…
こうした混乱を演じる方を目の前にした時の自分の気持ちの在り様にも注意を払いたいものです。

そうした方を見て、口では「気の毒だね」「大変だね」これがスピリチュアルな解釈ならば「今、彼が(彼女が)選んでいる事だから仕方ないし、完璧だね」などとも言うのかも知れません。
でも、今はたまたま幸せで安心な毎日を送っている自分をそこに対比させて、ほのかな優越感にひたっていないか?もしそうならば、それもまた、ジャッジの変形であるに違いないのです。

感情を露にしている人の姿や、争い諍う人の姿を間近に見せられるだけなら、まだ冷静に静観の態も取れますが…これが非難や中傷を自らが浴びるとなると、たちどころに怒りの感情に呑み込まれてしまうのも私達人間であり、たちどころに「ウサを晴らせ!」「やっつけろ!」と、この時だけはスピリチュアルな教師の看板を脇に置いてでも(笑)憎い相手と決め付け、ジャッジのるつぼにはまるのも人間が感情の生き物と言われる所以かも知れません。

でも、例えそれが自分で知覚する事のできないものであっても、自分の無意識下にある狂気や恐れと言うものを、そうした方の姿が見事に教えてくれていたりするもので…最近自分の中で圧し殺した怒りのパターンや、くすぶる様に自分の中にあった認めたくない感情のパターンなどを、まるで引き受けるかの様に、ここぞの場面で、逆に青天の霹靂のタイミングで、他人同士の争いの中に見せてくれたり、自分に投げつけてくる人の批判や非難の中にさえもそれを教えてくれる時があるものです。

人に対して批判がましい人間は、自らも批判にさらされる許可レベルが高い事に於て、まさに因果応報なのです。

もっと身近で簡単な例をあげて言うなら、車の運転でせっかちに割り込む傾向のある人は、また自らも他の車に割り込まれ「バカヤロウ…」とぼやいてみたり、舌打ちするハメになる事に於て等同なものがあるのです。

((o(*≧д≦)o))

かく言う私も、極道当時の若い頃などは、モナコグランプリ張り(笑)の運転をしていたもので、高速道路などで、少し車が混んできた様な時でも、着く時間にしたらそんな違いが無いにも関わらず、ちょこまかと、ちょっと車線の片側が空いたと思えば割り込み、それでも動かないと見れば、覆面やパトカーに注意しながらも路肩をあたり前の様に速度超過で走っていたものでした(笑)

そこには空いたら割り込まなければならないと、自らをプログラミングしていたに違いないのですが、当時の私は法定速度を守り、チンタラチンタラと、前の車に従順に付いて行くのは、機転の利かぬ間の抜けた人間の運転と決め付けていたところがあり、これも裏を返せば、人からどう見られるかと言う、自分の世界モデルに照らした恐れがそこにはあったに違いないのです。

ジャッジとは様々な形を取り、正義を持ち出したり、個としての自分を主張させたりで、人を争いと対立に向けるエゴの法則が裏にはしっかり控えている事、忘れたくないものです。
これは私達が見るニュースや、様々な社会現象全てに言える事でもあります。

「他者はいない…」とは、それぞれが肉体を持ち個としてのパースナリティが完成されている様に見えるこの世界では、多くの人にとってそれは認め難い概念かも知れません…。
でも、私には霊的真実を語る言葉としてこれ以上の言葉もまた無い様にさえ思えるものです。

抗うものを感じる人でも、自分のどこかしらを映し出す鏡の働きをしてくれているものです。
『人にする事は自分にする事』とは、シンプルな言葉ながら、良くも悪くも、娑婆で生きる私達に最後の最後までつきまとうものと知る時、おのずと人に対して優しくならざるを得ないのではないでしょうか?

合掌

読者登録してね

タイトルとURLをコピーしました