どうにも鼻につく様な気に食わない相手に出くわす事は、人が生きる上で、必ず経験する事なのかも知れません。
まだ私が極道の世界にいた頃、ネオン煌めく夜の街で酒を飲んでいる時など、クラブやスナックで働く女性の様々な話しや赤裸々な体験談を聞く機会も多かったものです。
そんな時、綺麗で器量の良い女性が店をハネた後の食事の席などで、同じ店で働く女性の批判を始める様な時があり驚かされる時があったもので…
この女性を仮名でA子としますが、そのA子が「渡部さん(私の事)こないだB子をテーブルに付けて飲んでいたけど、ずいぶん仲良さそうだったよね…私あの子だけは初めて会った時からなんでか知らないけど気にいらなくて、こないだもお客の事でケンカして水割りぶっかけちゃった」などと、B子と私の仲を半ば疑うかの様な眼差しを向けてきたものです。
普段はサバサバと、店で働く同僚の悪口など言わぬA子の口から出る「水割りぶっかけちゃった」と言う言葉が、清楚なイメージを裏切るかの様でおかしくもあり、また意外なものを感じた私でしたが、水商売にありがちな客の取り合いなどから生じる嫉妬を隠すところなく口に出すこの女性がどこか可愛らしくもありましたが…でも、私はこのA子とB子が外見こそ違えども、とても似ている様に思えてならなかったのでした。
当時は私もヤクザの世界に生きる身で、スピリチュアルな心得などはありませんでしたが、それでもそれまでの人生経験から、似た者同士と言うのは仲の良い時は良いが、一度仲違いをすると、それこそ引き合う様に修復不可能な争いになる傾向がある事などもわかっていたもので、A子が攻撃の矛先を向けるB子が、別席ではまったくA子に向けた同様の悪口を言っていたのを耳にしていた私でもあり、どっちから聞いたのが先だったのか?後だったのか?思わず考えてしまった程でした(笑)
「悪事は千里を走る」と言いますが、敵対心や蔑みの念なども、まさに以心伝心である事において見事なものがあります。
本人がそうした想念をキャッチせずとも、周囲にいる人などが、まるで神仏に仕える眷族の様に一方に耳打ちし、かたやの悪口や中傷がバレて、取り返しのつかない経験をした事のある方も多いのではないでしょうか?
この女性のケースに見られる様に、本人達とすれば犬猿の相手に、自分と似ている部分がある事など思いもよらぬ事ではあっても、両者を知る周囲の人間が、似た者同士と認めている様な場合も多いもので、それを口に出せば気分を害し、火に油を注ぐ事になりかねない事から黙っている様なケースも多い事など、今まで随分と見てきた様な気がします。
こうした相手と言うのは血の繋がった家族であろうと他人であろうと、スピリチュアルな観点で言うと、自分のエネルギースペースを所有出来ない相手として、過去生からお互いの間に持ち越してきている課題やテーマがある様です。
※エネルギースペースが所有出来ない相手とは、人間関係などにおいて当人とすれば理解し難い葛藤や憎しみや嫉妬、プライバシーの侵害などの過干渉を発生させる事で、過去生のカルマに原因があるとも言われています。
時として、誤解を解くためなど、自分の正直な感情のありかを冷静に相手に伝える事もとても大切な事でもあります。でも、その時の感情に支配されるままに、相手をやり込めやっつけ、ギャフンと言わせればその時は溜飲を下げ、我が世の春を謳歌している様な気持ちにさえなるかも知れませんが…(笑)
でも、見えざる無意識下からくる罪悪感は、自分を痛めつけずにはおかないものです。事故や病気、さらなるトラブルなどたとえそれが微妙な形をとろうとも、心の平安、安心を失わせるものとして発揮される事必定です。何故なら、私達が人に対して行う事、与える事の全てが、イコール自分に対して行うものである事を、私達の深い部分が知っているからです。
こんなところにも、全てが一つを意味するワンネスと言うスピリチュアルな言葉の意味があったりもします。
下記に「奇跡のコース」より短い文章を引用しましたが、短い文章なれど、私達人間が、他人を通して自分自身を批判攻撃し、また相手を通して自分を赦す旅を続ける生き物である事を看破しているかの様な内容でもあります。
※「奇跡のコース」とは、イエスキリストのメッセージをヘレン・ジャックマンと言う女性が口述筆記した霊性の書。
このことを学びなさい。
これによって、
幸福の遅延があなたがたにはわからないほどの時の幅で短縮されるのだから。
あなたがたは決して兄弟の罪によって兄弟を憎むのではなく、
あなた自身の罪によって憎むのである。
兄弟の罪がどの様に見えようとも、
それはあなたがそれを自分のものと信じているという事実を押し隠し、
「正義」の攻撃と思わせるように仕向ける。
合掌