今朝のTVでは、イスラム国により捕らえられ殺害された湯川遥菜さんに続き、後藤健二さんまでもが、理不尽で一方的なプロパガンダの元に殺害されたニュースが報じられていました。
亡くなった後藤さんの母親が、ご子息健二さんの訃報に際し、「塗炭の苦しみを生きている」と今の心境を語っていましたが、ここに至るまでの経過を見ても、テロリストの突きつけてきた要求は、遠く離れた異国で拘束された挙げ句殺害されたご本人は勿論の事、この方達の生命の安否に寝食さえ忘れて日本で待ち続けたご家族や周囲の方達にとっても、生還への希望など許されぬかの様な絶望に満ちた日々であったに違いありません。
イスラム国が日本を交渉の場から逃がす事の無き様、ヨルダンまで巻き込む狡猾で政治的なやり口は、恐喝などに用いられる典型的な暴力の形を伴っている事に於て、国難とも言えるこのイスラム国による邦人殺害の件も、私達が新聞誌上などで目にする恐喝や暴力事件も、その根とするところは同じであります。
私達は他国間で行われる紛争や戦争などを見る時、そこには何か私達では伺い知る事の出来ない民族間の対立や争い、宗教上の教義や信念の違い、既得権益を巡る熾烈な争いなどが背景にあると考えがちですが、国内で起きる殺人や様々な事件とは規模やスケールが違う事から、平和に慣れた多くの日本人にとって、どこかしらそれは対岸の火事の様でもあり、ニュースの中の出来事としてしか実感の湧かないものなのかも知れません。
今回のイスラム国で亡くなった方達を指して、敢えて危険な地域に足を踏み入れているのだから亡くなったのも「自己責任」とする見方もネット上で多い事に驚かれた方も多いのではないでしょうか?登山者の遭難や事故などにも用いられるこの言葉ですが…
この自己責任と言う概念、実は定義もあいまいで、条件付けによっては、人間の命が軽くも重くもなる事に同意し、間接的に死刑のボタンを押している事に他ならぬ様な、寒々しい言葉に思えてならない時があります。
アメリカでは一般の民間人が他国のテロ組織に捕らえられ、身代金を要求されても、「テロには屈しない」との国家としての信念の元にテロリストとの間に取り引きをしない事を明言していますが…ところが、捕虜が軍人の場合は別の様で、救出に向けて取り引きも辞さない事をオバマ大統領も認めています。
これなども、有事となれば最前線に立つ犠牲がつきものの、軍隊や兵士の士気を考慮しての事なのでしょうが…
ここにも銃後にある一般の民間人と、兵士との間には「命の値段に差がある事」を公然と社会認識として刷り込まれ共有している私達があり、書けば長くなるので控えますが、これは死刑制度などにも共通のものがあり、その時々の権力側の人間が指し示す条件付けで、人間の命が軽くなったり、重くなったりする事が可能な事を現しているもので、適者生存、弱肉強食の世界構造を支える重要な信念となっているものです。
私は過去に極道の世界にいましたが、その世界でも、抗争に於いて自らがコマンドとして身を挺し、対立組織の組長や幹部を殺害し、長期受刑さえ辞さない人間は尊敬を集め、賞賛されたものです。これなども前出のアメリカ兵士の捕虜の話しとは次元の違う事の様ですが、底流に流れるものは同じ様に思えてなりません。
また、軍隊は敵に捕らえられ拷問にかけられても、部隊の所在や軍の機密を決して自白しない強靭な兵士の姿を求めますが、これは極道の世界も同様で、ヒットマンとして敵対組織の人間を殺しても、その後の警察の取り調べで黙秘や命令系統の否認を貫けるかが問われるところで…私なども昭和から平成に変わる数年間を抗争要員として、西に東に潜伏する日が続いた時がありましたが、そんな私に「ええか、どんなに綺麗な仕事をしてものう…その後で御家に迷惑かけるくらいなら、はなからせんほうがええんや…」と、その道の先輩は若い私に諭す様に語ったものでしたが、ここで言う「綺麗な仕事」とはヒットマンとして、見事に敵対組織の人間を仕留める事であり、御家とは自分の所属する組織の事を指し、つまり相手を殺しても、その後の警察の取り調べで、上にいる人間の名前など間違ってもウタう(自白)なよと言う、戒めの意味のある言葉でもありました。
今はどうか知りませんが…私が極道当時などは、警視庁を含む関東の警察は取り調べも比較的紳士だったものです。ところが、これが大阪府警や兵庫県警などの通称「マルボウ」と呼ばれる暴力団対策課の取り調べ時のヤキ(暴力)はその世界で有名であり、親分や組長と呼ばれる人間であろうが情け容赦ないものがあり、まして抗争で捕まった若い衆などに対しては銃器の入手経路や命令系統を自白させ、その組織のトップや幹部を一網打尽にすべく徹底した精神的プレッシャーと暴力を駆使したヤクザに人権など無いと言わんばかりの取り調べが行われる事は予想だに難くない事でもあり、こうしたところをくぐり抜けて、事件に連座する逮捕者を出す事なく、下獄して行く人間の姿を見る時など、当時の私は見事だと思ったものでしたが…
前出の軍隊や特殊部隊の兵士などに求められる強靭さや個性の介在を許さない不条理も、極道社会のコマンドに求められる強靭さや沈黙の掟も、その立つ世界やスケールに違いはある様に見えますが、個人に求められる資質と言う点に於いてまったく一緒であります。
華々しく時には凱旋パレードで国民の支持や賞賛を得て出征して行く兵士の姿と、世間からは暴力団と…時には蛇蝎の如く嫌われる裏社会の人間を同一視するのはどうか?と思われる方もいるかも知れませんが、みてくれや外見に囚われる事なく、深いところを見て行く視点がとても大切な事でもあります。
私が極道当時、獄中で読んだ新左翼の作家が書いた本の中にこんな意味の一文がありました。「人を一人殺せば蔑まれる殺人者だが、戦場で百人殺せば英雄として賞賛される」と…
私は殺人を奨励するつもりなど毛頭ありません。また、ここに引用した文章は極論であるのかも知れません。
でも、私達がこの世界を生きる上で適者生存、弱肉強食にプログラミングされている決定的な刷り込みが、端的に現れているかの様な言葉でもあります。
私は世界を洗脳支配し、戦争や紛争さえ、意図的にコントロールしているとさえ言われる闇権力の構造やフリーメーソンやロスチャイル
ド、ロックフェラーなどの財閥には興味が涌きません。でも、今では中学生でもアメリカが軍産複合体に強く影響を受けている国である事などを知っている時代でもあり、そうした闇権力の構造をリアルな対象として究明して行く事は更なる存在を浮かび上がらせ、延々とエンドの無い、魑魅魍魎とした世界に自分のエネルギーを貼りつけるところとなり、自分の周りにも不可解や猜疑を招きかねないところから、少なくとも私の担当とするところではなさそうです(笑)
収奪のシステムや世界に跨がる利権構造は存在するのかも知れません。そんな事を聞くと、一部の特権階級が虚栄を満たし、苦しんでいる人をよそに冷たい微笑さえ浮かべ、我が世の春を謳歌している様なイメージが浮かぶかのも私達人間ですが、どんな闇権力や世界を支配する財閥の主であろうとも、汚い言葉かも知れませんが、同じ口から物を食べ、ケツからは屁もすれば糞もたれる同じ人間に違いないのです。
たまたま今世では良いお金のカルマに恵まれ、金は無尽蔵にあるのかも知れませんが、富める人間には富める人間の業火や地獄がある事は、規模やスケールは違えども、極道当時に見てきた事でもありました。
どんな大金を握っても、常に何らかの恐れを抱き、枕を高くして寝れないとしたら、それは巨億の資産どころか巨億の負債と呼ぶべきもので、いつかは全てを焼きつくしてしまうのも、破壊と再生の星であるこの地球を支配するエゴの法則であり、ここで言うエゴとは心理学で言うエゴではなく、この世界を適者生存、弱肉強食の世界にプログラムし様とする、この世界にはりめぐらされた全システムとさえ言えるものの事です。
そう言う意味では、どんな巨大な利権集団であろうと、世界を支配する財閥であろうと、テロ組織の首謀者であろうと、エゴと言う黒子に、右から左へ、前から後ろへと、踊らされコントロールされている人形に等しいものがあると言ったなら逸脱しているでしょうか?
真に脅威なのはリアルに見えるこれらの存在よりも、それを突き動かしているエゴのシステムに他なりません。それは私達の身近にも顕著に顔を出します。争いやイジメ、そうしたものが戦争や紛争に結び付くはずがないと信じているのも私達人間なのかも知れません。
スピリチュアルな観点で言うと、外にあると信じているこの世界も、私達の内側にあるものが様々なシンボルとなって現れている事において間違いなさそうです。
私が最近「奇跡のコース」の引用などで用いる赦しの実践とは、いかにもシンプルな言葉の響きですが、時に自分と言う存在やアイデンティティが失われる様な恐れから怒りに転化しやすく、うっかりするとエゴの餌食になりやすいものですが、相手に苛立ちや怒り、抗うものを感じる様な時は、総じて認めたくない自分の一面を相手が表現している事などが原因だったりするものです。
怒りには怒りで応じて、挙げ句のはては暴力沙汰になったり、お互い取り返しの付かぬほど傷付けあい、安心を失わせしめるところにもエゴはしっかり介在している事を知り、同調せずに通り過ぎるものである事や、自他共に赦す事の実践こそが、自らの心の平安や世界平和にさえ、さざ波の様に影響を与えるエネルギーの真理と言うもの、忘れたくないものです。
合掌