★怒りは恐れの裏返しだと言うのか!?…エゴの罠を見抜け!

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まだ私が極道の世界にいた頃…
『あの人はお人よしだね…。』と人から言われる事は『あんたは馬鹿で能無しだ!』と言われるに等しい事と頑なに思っていた私でした。

こうした私にとって、仕事などで人との出会いがある時、即座に敵味方に分類する色眼鏡で見ていたのは言わずもがな…
先々利益を生み出す人脈に成り得るのか?それとも、繋がりを持った途端に金銭の無心をしてくる様な、あちこちの極道に借金がある事を隠し、後でトラブルを持ち込んで来る様な人間なのか?くたびれた様子にそれが現れていないかまでを、短い言葉のやり取りの中にも嗅ぎ取って行くのが習慣となっていたものです。

また、他組織との間における『掛け合い』と呼ばれる交渉事に於ては、時には言葉尻一つとらえても揚げ足の取り合いになる事から、こちらが優位に立つ為には相手の弱みを先に読み取る能力や機転は常に求められるところでもあり…
それは別の言い方をするなら極道のリーディングとさえ言えるものだったのかも知れません。

それは人間関係などに於て、そこにダマしたり陥れ様としたりする企みがある時など、どんな詭弁を弄し、ポーカーフェイスを装うとも、危機回避の本能の様に、相手の姿から直感に訴えてくるものがあったものです。

極道の世界を礼讚するつもりはありませんが…
私が見てきた親分と呼ばれた人達の中には、人間関係の相性と言うものや、仕事などにおいても、この人間とあの人間を組ませたらうまく行く、もしくは一方が潰れてしまうだろう…と言う様な、その時々、プラスマイナスに働く人間関係の機微に長けた人も多かった様な気がします。

これだけ見れば聖人君子の様でもありますが…笑
私自身を振り返ってみても、当時は明日の事などわからず、金にも追われるサバイバルな世界を生きていた当時でもあり、それは決して綺麗事などではなく、持ち込まれた話し(仕事)にたとえ不穏でキナ臭い匂いがしても、承知で喰らいつき、『もめてなんぼのもの』とばかりに、トラブルの渦中に利益を見出だすのも極道だと思っていたのです。

内にも外にも油断ならぬ世界を生きるヤクザにとって、自らに迫る危険など、負の事象と言うものは、獣の勘の様に敏感に察知する事も多く、たとえば警察から逮捕状が出る事を『キップが出る(切符)』などと言ったものでしたが、その様な時、逮捕に至るまで共犯者や交友関係を特定される為、逮捕まで泳がされる様に日を置かれる場合も間々あり、当然本人には逃走などの恐れもあり、警察から逮捕状が出ている事など、告知される事もないのですが…

身に覚えのある直近の出来事が事件に直結している場合は別としても、こんな時でも、どこかしら第六感の様に虫が知らせてきたりするもので…
例えばよく行く喫茶店などで、普段見慣れぬ人間が新聞を広げていたりする姿が刑事に見えたり、家の側に停まる車が警察の捜査車両に見えたりと、薄気味悪い、落ち着きを得ない日が続くもので、こうした警察に追われる身の上を指して『身体が早い・からだがはやい』などと、当時隠語でそれを称したものでしたが、確かに、違う時間軸に投げ込まれたかの様に、逮捕まで目まぐるしく時間が過ぎて行くものを感じたものです。

そんな世界を生きた私にとって、全てにおいてジャッジする事や自分なりの価値判断を下す事は習慣となっていた事であり、何か事において、人を許すと言う事は、イコールその人間に貸しを作ると言う利害関係に一致したものでなければならないものでもあり、無償の愛や赦しの実践などと言う言葉は、表現が悪いかも知れませんが、宗教かぶれした人間がほざく、何の実行力さえ持たぬ、負け犬の遠吠えの様にしか当時の私には思えなかったものです。

でも、ここは私が僧侶となりヒーラーとしてスピリチュアルな道を進んで行く上で、大きく自分自身の中で試され、浄化を必要とするレッスンでもありました。

自分自身を流されるままの結果として見るのか?

それとも原因として生きるのか?

それは大きく自分自身に突き付け問い掛けてくるかの様でもありました。
怒りが恐れの裏返しである事を認める事にさえ、当初は大きな抵抗がありました。
『人間は感情の生き物なのだから、怒りの感情を発露し、相手にぶつける事だってあって当然さ』と…
でも、それさえも気付きが進むに従って、到底自分を得心させる事の出来る理屈では無くなっていったのです。

人生がうまくいかないのも、イライラも、自分に感じる不甲斐なさも、全て人のせいにして生きる事の何と簡単な事でしょうか?

人を怒りや憎しみのままに罵り、やり込め論破したかの様な時、一時は溜飲を下げたかの様な快感や優越感に浸る事が出来ても、時間と共に罪悪感が追いかけて来て、拭いきれない相手の画像として自分の中にとどめ、心身の不調は元より病気や事故を引き起こす因果となるのも人間のエネルギーの真理でもあります。

人間には自らに感じる恐れや狂気を否認したいが為に、それを外部に形を変えてでも投影し、時には攻撃し、解消を図ろうとするエゴの働きと言うものがあるのです。

全ての原因が外にあると思う時、自分の深い部分にある恐れに目を向ける事なく、何度でも同じ相克や葛藤のパターンを繰り返させるのがエゴの計略でもある事は以前の記事にも書いた通りですが、私達が輪廻転生と呼ぶものにさえ、それは影響を及ぼしている様で…

私達は何かのノルマを達成するかの様に自己実現を成し遂げた時に、輪廻の輪を断つものと考えがちですが、何かを成し遂げる自己実現とは、二元性の世界であるこの現世の楽しみ方に他ならず、自分がこの娑婆と言う時空世界に生まれて来る時に、エゴとの契約で定めた生まれてから死ぬまでの人との出会いから生じる葛藤をいかに赦し癒す事が出来たのかと言う事にこそ、人間が問われる最も大きな課題やテーマがある様な気がしてなりません。

ヒーラーとして学んで行く中で、人に怒りや憎しみをぶつければ、相手を自分の中で葛藤をもたらす存在として確固たるものとし、自分をそこに縛り付けてしまう事や、エネルギーに変調を起こし、身体が悲鳴を上げてしまう事、本来自分とは関わりの無いと思っていた他者への見方と言うものこそが、自分のアイデンティや自分の在
り様さえ決めていた事に気付かされる瞬間が訪れた私でもあったのです。

合掌

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以下の文章は『不死というあなたの現実』ゲイリー・R・レナード著より引用

【著者】

ああ、あんたの言うとおりだね。
ぼくはときどき、物事にこだわりすぎる。それも、その対象を現実(リアル)にしてしまうんだな。

【アセンデッドマスター】

そこに気づいたなら、赦しを実践させてあげましょう。
よかったわ。何であれ、人生で起こることがあなたの赦しのレッスンです。だからわたしたちもそういう話しをしているのよ。今回は個人的なことよりも、あなたのプロとしての赦しのレッスンのほうに重点を置く、と言ったでしょ。これもその一つね。

もちろんプロとしてか個人としてかなんてほんとうはどうでもいいの。ただ、たまたまこの二年ほどであなたの人生がすっかり変わったってことね。
プロとしてであろうと個人としてであろうと、人間関係の成功とは何かを教えてあげます。
よく聞いてね、相手が誰であろうと、どんな関係に見えようと、それはどうでもいい。
いい、わかるかしら?人間関係が良くないものに見え、かたちのレベルではひどく見えようとも、そんなことは重要ではありません。

人間関係の成功とは、あなたが他者を赦せること、赦したことなの。
聖なる関係に変えるためには赦しが必要であり、赦しが必要なすべてなのよ。
『コース』が言っている様に、『したがって癒すことは、聖霊をあなたの兄弟と分かち合うことによって、彼とあなた自身の概念を修正することである。それによって、あなたがたはどちらも王国のなかに置かれ、心のなかでその全体性を回復する。これは創造を反映する。なぜなら増大させることによってひとつにまとめ、拡張することによって統合するからである。』

※『コース』とはキリストの言葉を口述筆記されと言われる霊性の書『奇跡のコース』の事。

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