宇都井健さんの残した言葉とは…

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今朝の新聞を見ると俳優宇都井健さんの死去が報じられていました。

享年82歳と、若すぎる死とは言えぬものの、また昭和の名俳優が一人黄泉へと旅立ってしまったものをその記事に感じるばかりの私でした。

宇津井健さんと言う時、昭和40年生まれの私などは、山口百恵や坂口良子が出演した『赤い疑惑』や『赤い激突』など、赤いシリーズでの誠実ながらも心揺れる父親役のイメージを思い浮かべるものがあったりもします。

銀幕のスターなどと言われた昔とは違い、今やTVや映画で活躍する俳優と言うものも、スクリーンや画面で見る虚像と、プライベートのギャップは何らかの形で生じている事なども、誰しもが心の片隅で理解している時代でもあります。

私は役者の世界の事はわかりませんが、自分に無いもの、相反するものを演じる醍醐味や面白さと言うものも、俳優と言う仕事にはあるのではないかと思ったりもします。

でも、子供の頃より、TVのドラマで見慣れた宇津井健さんではありますが、この方ほど、また悪役の似合わぬ俳優はいないのではないかと思ったりした時もあったもので、1953年に映画デビューしてより、刑事役などでの出演は多くとも、ただの一度も悪役らしい悪党を演じた事が無かったと言うのは、全くもって頷けるものがあります。

人間にとって、演出されぬ誠実さと言うものは、隠す事の出来ぬその人の印象となって、滲み出るものなのかも知れません。

プライベートでも、ドラマでの父親役そのままに、至誠一貫したものが宇津井健さんにはあった様で、半世紀以上にも及ぶ役者人生の中で、無遅刻、無欠勤を通し、愛妻を亡くした当日も、普段と変わらぬ態度でドラマの収録をした逸話など、穏和な表情に隠された自己への厳しさや信念と言うものも合わせ持つ方だったに違いありません。

そんな宇都井健さんが次の様な言葉を残しています。

『うまい役者になるより何か可能性を残している役者でいたい』

『傲慢になったら役者は終わり、僕は死ぬまで発展途上、進歩が止まった役者ほど意味のない存在はない』と…

この言葉の『役者』の部分を、自分自身の仕事や職業に入れ替えて見ると、誰しにもあてはまる今日を生きる戒めになるのかも知れません。

人間は齢を三十も過ぎてくると、苦言を呈してくれたり、親身に説教をしてくれる人間と言うものも、段々と周りからいなくなって行くものであり、よほど謙虚にかからないと、一人よがりの天狗になるばかりで、身体ばかりか、頭や心の動脈硬化も始まってしまうものです。

それでも若い内や勢いのある時と言うのは、綻びを取り繕えるかの様に思えたりもしますが、登り詰めて行く山の時もあれば、先の見えぬ谷を歩いて行く時もあるのもまた人生…

自分を飾り付けていた経済力や社会的な背景や肩書、そこに付随していた人間関係なども、それこそ人生の何処かのターニングポイントで削ぎ落とす事や、見直しや転換を迫られるのも、決して、小説や映画の中の出来事ばかりではない事…
皆さんの中にも、大なり小なり、姿、形は違えども、経験されて来た事ではないのでしょうか?

こんな時も不遇と思われる状況や、障害の様にさえ見える出来事を、他人や外部のせいにし、人を責めるに厳しい者を演じるのか?それとも、自己の責任として潔く引き受け、変化の好機として捉える視点を持ちアクションを起こすのとでは、その後の結果と言うものも、体験に於ても、内面にもたらされる安心や至福と言う点に於ても、天と地の差が生じるに違いありません。

以前、女性の自立を促すワードとして『おひとりさま』と言う言葉が流行った時がありましたが、それをもし、多少スピリチュアルに解釈するなら…
決して孤独を気取るものではなく、家族の中にあっても、会社の中にあっても、見る事、聞く事、体験する事の日常のすべてにおいて、自分が何処かのレベルでGOサインを出し、招請し創造に加担していると言う事…

自分の周りに見える現実が、知覚する理性にとっては、好ましいものであろうとなかろうと、自分の内面にある映し鏡であり、投影である事に他ならない事を知る時…

おのずと人に対しても、自分に対しても優しく慎重にならざるを得ず、ここに至って、初めて人間と言うのは、ゴミ屋敷に住むかの様な無気力な日々の混沌も、憎しみや嫉妬、争闘の元となるすべてさえ、自らの内側にある事に気付き、確執や依存のパターンから抜け出すかの様に、真の『おひとりさま』に向かって歩き出す生き物なのかも知れません。

僕は死ぬまで発展途上…

素晴らしい宇津井健さんの言葉、最後まで自らを生きる変化変容の可能性に賭けた人間の含蓄ある言葉ではないでしょうか。

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宇津井健さんの御冥福を心よりお祈り致します。

合掌

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