★人生交差点…体罰・仏教と名の付く学園の回想①

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※社会通念上、不適切な描写や表現がある事をお許し頂きたいと思います。

私は十代の頃、暴力事件を起こし、家裁(家庭裁判所)より委託試験観察と言う処分を言い渡され、ある篤志家の運営する施設に入所した時があります。

この施設は、学園と呼ばれる施設で、少年院などに入所した事のある犯罪傾向の進んだ青少年なども収容している施設でもありました。

名称の上に『仏教』と名のついたこの施設でしたが、今思えば、この時から私自身に仏縁がある事を暗示していたかの様でもあります(笑)

この施設、新入の頃よりしばらくの間は、脱走防止の為、トイレへ行くのにも先に入所している園生が付いてくる念の入れ様で、真冬の最中でも、早朝に『ジリリリ~ン!』とけたたましくなるベルの音と共に、飛び起き、パンツ一枚で我さきに争うかの様に表へ出た後、点呼から国旗掲揚、マラソンで施設の周りを走り終えた後は…

長い廊下を何十往復もする地獄の雑巾がけが待っていたものです。

中学の頃などは柔道をかじり、ちょっとは体力に自信のあった私も、この雑巾がけに初めはついて行けず、息が上がってしまい、その激しさの為、筋肉痛で足が棒の様になり、びっこを引いて歩いた思い出があります。笑
((゚Д゚ll))

この施設の園長は、戦時中は軍隊に従事した経験もあってか、軍隊的な厳しい行動訓練を取り入れる事によって、グウタラな性根を矯正する意図もそこにはあったのかも知れません。

少年院や刑務所でも洗面や入浴の時間などは定められたものがあり、娑婆の様にゆっくりと言うわけには行きませんが、慣れれば順応して行けるレベルのものでもあるのですが、この学園では…

それこそまだ表の薄暗い朝の4時過ぎからパタパタとトイレに向かう園生のスリッパの足音が廊下に聞こえ始めるもので、これが何を意味するかと言うと…

午前、午後ともに、休憩時を除き、原則的にトイレに行く事が禁止されているからであり、どうしても排泄がしたくなった時は、園長や園生の前て順次自己申告の上、許可を得なければトイレにさえ行けぬシステムなのです。

その他にも早朝の洗面の時間などが特に定められていない事から、朝など、短時間でそれを済ませ様とする園生で、洗面所など押し合いへし合い状態となり、風呂の時間なども入浴と洗体を入れて9分と刑務所のそれより短い上に、手桶で使えるお湯の量も決められ制限されている事から、石鹸で泡立ち良く身体を洗う事さえ憚られたものでした(笑)

この園長はよくトイレの話しを皆の前でしたもので…
『いいか、みんなよく聞け!グウタラで怠惰な習慣に慣れているから、何度もトイレに行く様に身体が出来てしまうんだ…だいたい、便秘なんて言うのは、朝、定時にトイレにしっかり座る習慣があればそうはならないものだ。それに、仕事中に何度もトイレに行く様な人間に、会社が何を信頼して任せてくれる?愚連隊だって、チンタラチンタラ、トイレなんかに入っていたら、ここぞとばかり狙われて殺されちまうだろ?』と愚連隊まで持ち出すそのたとえがおかしくもありましたが、納得の私でもあったのです(笑)

トイレや洗面、入浴などの一般的な日常の動作が怠惰に緩慢になるところにも、非行が宿ると言う、この園長の矯正教育に対する持論が反映されているかの様な学園の日課でもあったのです。

この園長は、園生でもある私達に…

『いいか、おまん達!監視体制に慣れて、要領ばっかり使う表裏のある人間になるじゃねえだよ!』と、独特の方言でよく言って聞かせたものでした。

これを言う時は、掃除をさぼったり、規則違反が発覚した古株の園生を正座させた上で、竹刀で散々打ち据えた後などが多かったものですが…
十代の頃とは言え、犯罪傾向、言いかえればワルの度合いの進んだ人間は、確信犯的なワルとしての気概と、早く出所する為に、更正を決意し、さも改心したかの様に演じる要領の良さの二本立てがしっかりその内面に確立されており、この園長にしても、目を赤くし、『何で貴様はわからんのだ!何で貴様は表裏ばかり使うんだ!』と、繰り返し竹刀で打ち据えるその姿と言うものを見る時…

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施設にいる時は模範でも、社会に戻ればすぐにドロップアウトし、塀の中に舞い戻る事を繰り返す、ある面施設慣れしてしまった、若者の心根を、まだ精神に柔軟性のある十代の内に、たとえ身体の痛みに訴えてでも、摘んでしまいたいと願う篤志家としての思いと、
叩かれても反省するそぶりを見せるのはその時だけの、懲りる様子の無い園生に対する忿懣やるかたない人としての赤裸々な思いが交錯するかの様に私には映ったものでした。

心臓の疾患を持っていたこの園長、竹刀を振り下ろし、心拍が急激に上がる為か、いつも最後にはかばう様に胸を押さえていたものですが…

竹刀で繰り返し打ち据えられる度に、顔を歪めてはいるものの、どこかしら『また毎度の事か…。』とばかりに、ワルらしくふてぶてしい表情を見せる園生よりも、半狂乱の様に竹刀で人を殴っておきながら、挙げ句の果ては、『おまん達は先生が倒れてもいいのか!?昔の園生はこんな時、先生やめて下さいと、止めに入ったものだぞ!おまん達には情と言うものがねえのか!?』と、胸を押さえ苦しそうに言うこの園長の姿に、哀れで痛々しいものさえ感じたものです。

こうした一種のヒューマン的とも思える場ではあっても、暴力を行使する事は、周囲に寒々とした白けた視線や雰囲気を生み出すものなのかも知れません。

それは暴力の本質を見据えている魂の眼と言えるのかも知れません。

この園長は作業時など、私達の側に来て、『叩いて良い子と決してそれをしてはならない子がある事』などもよく話していたものでした。

体罰と言う暴力に差別化など許されてなるものか!と思われる方も多いかも知れません…。

この方も、園生を憎むから叩くのではなく、その中にある、物事をひっ隠し、自分に都合の悪い事は隠蔽し様とする非行や犯罪の源になる行動原理や信念を憎むかの様に竹刀を振りあげていたのかも知れません。
しかし、本人の他者への暴力を制止する様な緊急避難の措置は別としても、体罰を是とする時、そこにいかなる理想や理屈付けをしたところで、完璧ではない人間の事…
拡大解釈による行き過ぎを生み出す危うさは常に伴う事でもあります。

叩かれた時、ハッと自らの非を悟り、その後において『お陰さまで…』と、その時の事を感謝と共に思い出す事の出来る人間やケースもあるのでしょうが…

セッションを通して思うのは、親や教師に受けた心ない一言や体罰などの暴力が、その後本当に長い間の負のトラウマとなってしまっているケースがとても多い事です。

言葉による暴力も等同ではありますが、知覚を伴う体罰は、負の記憶としてその人の深いところに沈澱して行く事でもあり、こうした事は人生のどこかの部分で自己や他者に投影され、必ず浮上する時がある様で…

そうした鬱積されたものが発露する時、感情的に乱れ、愛する人や周囲を罵り攻撃したりと、周囲からはトリッキーや奇異に映る事でも、魂の叫びに他ならぬ霊的実相と言うものもそこには介在している様です。

合掌・つづく

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