★人生交差点…ある映画のシーンから思い出した事

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※社会通念上、不適切な表現や描写がある事お許し頂きたいと思います。

昨日、ケーブルTVを点けると寅さんが放映されていました。

冒頭、『男はつらいよ』定番の夢見のシーンで、法衣を着た寅さんが『南無観世音菩薩!』と唱えています。

この顔を見ていて、私はふとある方の顔を思い出したものです…。

それは昭和の時代、千人もの若い衆を持ち、K軍団とさえ呼ばれた、極道の世界で一世を風靡したある親分の顔でもありました。

現在は高野山真言宗の阿闍梨でもある作家、家田荘子さん原作の映画『極道の妻たち』の第一作で、今は亡き成田三樹夫さん演じるその人でもありましたが…

鮮やかなピンク色のスーツを着て現れたり、ミンクのコートを着て義理場と呼ばれるその世界の集まりに現れたりと、派手さにおいてもその世界で有名な方でもありました。

極道社会を礼賛するつもりはありませんが、時代もそこにはあったのでしょうが…
この当時と言うのは、個性的でスター性のある親分と言うものが、群雄割拠していた時代でもあった様な気がします。

この方も大組織を二分する極道世界の抗争において、袂を分かち反目した組織のNO2 で、実質的な頭目でもありましたが、最後は引退解散に追い込まれてしまいます。

私はその当時、この方を解散に追い込んだ組織の傘下にいた人間でもあったのです。

どれだけの力や虚栄を誇っても…
千人もの、自分を親分と呼び慕う人間がいても…
平和理に跡目の継承が為され、引退するならまだしも、身の保全と引き換えに組織を解散し、引退すると言うのは極道としての生命が尽きる事に他ならないのです。

『引導』とは、亡くなった方に生への執着を手放す様僧侶が説き聞かす意味合いを持つ仏教用語でもありますが、極道の世界においてもこうしたケースなど、相手よりケジメを取る、責任を取らせ詰め腹を切らせる様な事を『引導を渡す』とはよく言ったものでした。

しかしながら…
極道と言えども、愛する人もいれば家族もいます。
そこには笑いもあれば涙もありで、堅気の世界に生きる人と何ら変わらぬ人情やドラマもあります。

堅気の世界であれば、定年退職などで隠居しても、住む場所を追われる事もなく安穏として暮らしていけるでしょう…。

しかしながら、その晩節が最も難しいと言われる極道の世界…
私は寂しい末路と言うものをその世界に生きる人の姿に随分と見てきた様な気もします。

堅気になりたくとも、多大な借金がある為に、組織の看板を外せば、たちどころに追い込まれるものがある為に、背負う家族もいたりで地元を離れる事が出来ず、組織に必死の思いで縋るより他ない事情の方もいたりします。

晩節が難しいと言うのは…
若い時分は、やりっぱなしで、人を泣かせてきたその『業』と言うものが、堅気になった時に、待ってましたとばかりに吹き出る事があるからかも知れません…。

それは『自ら送り出したものを自らが受け取る』と言う、スピリチュアルな言葉の意味そのままでもある様です。

またこれは極道の世界の事ばかりでなく、長年、神経を張り詰めた仕事に従事されている方が退職し、新たな生き方を模索し様とする時など、プツンと自分を律してきた緊張の糸が切れるものを感じ、痴呆や病気の発症と言うハードな形を経験する方もいる様です。

一般の世界の方から見れば、『極道の世界にいたって、いつの日か金を握り堅気に転身して成功してやろうと思っている人間だっているのではないか?』と思われるかも知れませんが…
そんなサクセスストーリーがまかり通る程、甘い世界ではありません。

その世界にいる時は、食べる苦労や様々な不安要因に葛藤を感じる事はあっても、堅気に成る云々は決して口に出せない事でもあるのです。
そうしたニュアンスはたちどころに周りに嗅ぎ取られ、結果として、他の人間に遅れを取る事でもあり、それはまるで、逃げ道の無い退路を断つ心持ちで自らが立つ世界を肯定しなければ、生きて行けぬ無間の世界とさえ言えるのかも知れません。

長い間極道の世界にいた人間にとって、堅気になる可能性などに思いを巡らしたくないと言うのが本当のところかも知れず…
職業であれば転職すれば済みますが、極道として生きる事は、ヤクザ教とも言える全人的な生き方でもあり、それを否認する事は、自分を全否定するかの様な恐れがそこに伴うからです。

しかしながら、昔の極道渡世に生きる方達はよく言ったものです。
『ヤクザが務まれば何でも務まるさ!』と…

内に外に油断ならぬものを見つめ、またそうさせないでは置かない厳しい極道の世界…
その神経の張り巡らし様や気の使い方一つとって見ても、一般社会とは明らかに違うものがあります。

こうした事から独特の感性が磨かれ、人の心や感情の微細な動きを捉える能力を持った人間も多い上に、決断力に溢れ、様々な企画力や驚くべき発想を秘めている人間もいたりで、こうした方達が本気で堅気の世界に転身した日には、恐るべし能力を発揮するのかも知れません。

しかしながら、それも極道と言うアウトレイジな世界なればこその事なのかも知れません…。
自らにある裏社会に生きた男のプライドや信念、矜持は事あるごとに顔を出す事でもあり、この部分が堅気の世界に馴染んで行く事の出来ぬ大きな障害を為す時がある事は、私自身、自分の中に見てきた事でもありました。

組織から円満な形で祝福を受け、身を引く事もあるのかも知れませんが…
たとえ資金豊富で事業などを営み、余生を生きる心配が無くとも、かつて所属していた組織の人間からみれば『アンタ!ウチの組にいたおかげで暖かいメシが食べていられるんだろう?ちょっとは協力しろや!』との理屈も成り立ち、そこに以前の人間関係のトラブルなどがあったりすると、改めて浮上したりで、ていのいいタカリに遭う事もあるのです。

こうしたカオスの世界を描くところが、堅気の世界と決定的に違うところなのかも知れません。

極道の時は組織の背景や看板があり、人が一つも二つも頭を下げてくれる様に感じるものですが、堅気になると、そうは行かず、文字通り裸の自分、一からのスタートと言うものを、肌身で痛切に感じる時が私にもあったものです。

冒頭に出てきたその親分は、堅気になってからは、住む場所を追われる様に転々とした事なども風の噂で聞いたものでした…。

また、この親分を引退に追い込んだ私が所属していた組織の親分も、極道としての功績もあり、惜しむ声はありながらも、徹底抗戦を主張し、大組織から分離したが為に、激しい攻撃に晒され、何人もの犠牲を出した末に、結局は同じ憂き目を見たのです。
(現在は解散・死去)

諸行無常の響きあり…と言う言葉は、儚い顛末を描く極道世界にこそ私は見てきた事なのかも知れません。

極道の様な犯罪に関わる世界…自分とは縁無き事と思われる方が殆どかも知れませんが…

競争と対立の力のモデルは極道社会だけにあらず…
国やビジネスやスポーツなどあらゆる分野にその程度に差こそあれ、発生している力学であると言ったら過言でしょうか?

『裁いてはいけない。さばかれないめである。あなたがたは裁くとおりに裁かれ、計られるとおりに計られるから…。』と言う聖人が残した言葉を最後に記したいと思います。

合掌

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