★引き寄せの幻想を撃て!④…この世界が夢だと言うのか!?

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前回の記事で、私達が生きるこの世界が、夢や幻想であると言うアセンデットマスターの言葉を引用しましたが…
それを仏教では無常(アニッカ)ヒンズー教ではマーヤー(幻)と呼んできた歴史もあります。

人生の浮き沈みや人との出会いや離別などを考えた時、そこに儚いものさえ感じられ、なるほど『幻』と言う言葉も、概念として考えるだけなら、多くの人に受け入れやすいものがあるのかも知れません。

でも、傷を負えば痛みを感じ、皮膚の下には血の流れる私達人間にとって、超リアルに感じられるこの世界や、周りの人々が、幻想や夢に過ぎないと言う事は、とらえどころのない白日夢の様な話しの様でもあり、腑に落ちない方も多いに違いありません。

でも、特定の宗教観を持たない人や霊的な事に興味を持たない方であっても、現世で死を迎え肉体を離れれば『何らかの世界』へ移動するであろう事は漠然とながらも信じていたりするものです。

そしてその時は、この世で得た物は何一つ持って行く事が出来ないであろう事も…

私達はこの世界にあって、自分が生まれてきた意味を知りたい欲求に駆られたり、現実とのギャップを感じながらも、精神的な充足を求めて生きていたりもします。

私達がこの世界を豊かに謳歌し生きる為のメソッドやスキルは、今や書店に行けばところ狭しと並べられてもいます。

でも、その殆どが、肉体を持った有限の人生である事を前提に執筆されたものなのかも知れません。

時間と共に肌も輝きを失い、病さえ発症し、連れ合いを失い、老いさばらえ朽ち果てて行くかの様な、人間の生に対する無意識の恐怖と言うものが…
社会構造からあらゆるシステムに投影され、人をただでは安心させて置かぬ、戦い、競い、蹴落とす、適者生存のゼロサムゲームの世界モデルに一層の力を与えているかの様でもあります。

例えば、美しいと願う女性の美容一つとってみても、女性の夢を叶える美名の裏で、老いる事や老化する事への女性の恐れを巧にフェイクし、煽り立て利用している一面がある事、美容が信者の数を誇る新興宗教と揶揄されたりするのも、こんなところに由縁があるのかも知れません。

しかしながら、これは他のすべての事にも言える事でもあり、人間として生きる事は、こうした事に折り合いをつけて行く事でもあります。

しかしながら、そうした事を覚めていながら楽しむ事と、ただ欲望や焦りのままに飛び付く事では、大きな違いと言うものもあるのではないでしょうか?

こうした時、自分をブレさせぬ乗り物としてグラウンディング が有効だったりもします。

仏陀やキリストと呼ばれた、いにしえの聖人達は、この美しいとさえ思える世界が、完璧なまでに私達のパースナリティやエゴ、罪悪感を投影した夢、幻想の場である事を見抜き、肉体がすべてと思わせるエゴの罠から抜け出し、スピリットとして霊的に生きたゆえに聖人と呼ばれたに違いありません。

本当の私達の実在する場所は、神と共にあり、この世界には無い事を高らかに宣言した人達でもあった様な気がします。
でも、私達にとって、死んで念仏の先にある世界の事など、考えたくもないと言うのが本当のところ…
(=_=;))

いつの時代も、人間にとって、死は忌むべき出来事だったに違いありません。
不老不死に憧れながらも、朽ちて行く身体、有限の生と言うものに、苛まれ、抗ってきたのが人間の歴史とさえ言える様です。

これも一概に言える事ではありませんが…
限りある生、滅びゆく肉体と言う信念は、逆に肉体がすべてとする肉体である自分が知覚する快楽や至福がすべてであり、生ある内に何かを実現し、獲得する事に価値を置く、二元性のライフスタイルに導かれる事は必至とも言えます。

それは是非を問う事ではなく、それこそ私達が生きる世界に敷かれた幻想のトリック、隅から隅まで張り巡らされたエゴの磁場と言うものなのかも知れません。

青い地球、果てしない宇宙、愛する人や隣りで寝息をたてる家族の寝顔、TVで見るニュースから、はたまた自分自身の肉体までもが、幻想の旅路に用意されたものであると言う霊的真実は、瑣末な現実を生きる私達にとって、そう易々と受け入れられる事ではありません。

でも、人間の意識は死と呼ばれる肉体を離れる事象を経ても継続する事を説く本は、宗教の枠を超えて年々増加の一途を辿っています。

実は壮大だと思っていた宇宙、膨大な科学的なデータに裏打ちされているそれらの事も、幻想の世界では存在しても、本当は実在していないとしたら…
私達のコップの如き宇宙観の中にだけ投影されているものだとする、世界のスピリチュアルのリーダー達が、バイブルの様に帰依する霊的な指南書と言うものも存在します。
(((;゚д゚)))

以前の記事で、遥か離れた森で折れて倒れる木は音を発しているのか?と言う内容を書いた時がありましたが…
折れて倒れる木は、それを受信する人間があって、初めて音を発すると言うのが真実の様でもあり、これは自分自身がこの世界で見るもの、聞くものに意味を与えているのは、他ならぬ自分である事を示唆している事の様でもあります。

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この世界を生きる自分や、様々な出来事を脳や生体的な目で判断し見ていると思いがちな私達ですが、神と共にある場所から、本当は心の眼でそれを見ていると言う教えに初めて触れた時、私は衝撃を覚えたものでした。

悪い夢を見てうなされる子供を見て、親が身体を揺すって起こしてあげる事はあっても、親は心配しないものです。
何故なら夢の出来事で、子供に何らの実害がない事を親は知っているからでもあります。

これをこの世界を生きる私達と神との関係に置き換える事も出来るのではないでしょうか。

そして私達の人生の主要な台本もしっかり決められ、個人的な事柄では、ある時期に発症する病気やトラウマさえもしっかり織り込み済みのものがある様な気さえします。

『引き寄せの法則』よろしく、心地好い美辞麗句を並べたてたアファーメーションや、目標設定、イメージの技法と言うものも、効果をあげたかの様に見える事もあるのかも知れませんが、それも一つの幻想を別の幻想に置き換えるだけの事ではないのか?と看破するかの様な声も、スピリチュアルな世界にはあったりします。

自分自身の豊かさは自分の思考で創造するとばかりに、誰しも夢見ていたいものですが、自分自身が日頃、内に外に投影している罪悪感を蹴飛ばしておいて、自分に都合の良い引き寄せの法則とは起動するものなのでしょうか?

『何かが欲しい、何かに成りたい』と思う一方で、『もし駄目だったら…』と言う思いがそれを支える思考としてあるとすれば、それは表裏一枚のコインを成している事に他ならず、そうした想念は中和されたものになり、形あるものとして成就される事も少ないのではないでしょうか。

以前の記事にも書いた様に、引き寄せのメソッドには優れた実用的なものも多くあったりしますが、その中には経済的な事も含め、豊かである事が正しく強く美しいとばかりに煽りたてる論調に終始しているものが多かったりで、かえって自分軸を見失い、飢餓感を募らせてしまっている方も多い様です。

引き寄せの法則と聞けば思考を用いた魔法やマジック、あるいはスピリチュアルなワークを思い浮かべる人も多いのかも知れませんが、それもひとえに用いる人の意図によるところがあり、こんなところにもエゴは巧妙な罠を仕掛けるものかも知れません。

引き寄せのメソッドを用いる時に『何の為に?』と自分に問い掛けて見るのも良いかも知れません。
そうした時、その目標の背後にある動機や恐れ(欠乏や貧困など)に気付かされる時があるもので、かたや駄目だと思いながら目標を念じるよりも、その恐れとする事を言霊や自分に適したやり方で、内面から浄化する事により、自分の望む状況が訪れる場合もあったりするものです。

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つづく

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