人生交差点…酔歌⑤

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5月14日付『人生交差点④』の続き…

※社会通念上、不適切な表現や描写がある事お許し頂きたいと思います。

その電話は深夜にかかってきました。
受話器を取ると生気の無い疲れ果てたUの声…

『夜分にすんません…自分も金で詰まってしまって…疲れました…もう死んでしまいたいくらいです…。』と受話器の向こうで語るUの声を聞く時、私はこの時から、一ヶ月程前にUと会った時の事を思い出していました。

その時に私は、何故か不吉な予感に囚われたものです。
(((;゜д゜)))

Uと会った時と言うのも、周囲に他の人間がいたにも関わらず、何故かUだけが、その場から、そして他の人間からも浮き上がっている様にも分離してしまっている様にも見え、その顔が死相の様にも見えた私でした。

当時は若い頃の事でもあり、スピリチュアルな素養など皆無でもありましたが、この時に私は咄嗟にUが『逝ってしまうのでは…』と感覚に強く訴えてくるものがあったのです。

そうした事も気のせいだろうと、自分に言い聞かせ忘れていた矢先のUからの電話でした。

私とは兄弟分として仲の良いUでもありましたが、見栄っ張りで負けず嫌いの人間でもあり、私の前で冗談めいた愚痴を口にする事はあっても、決して弱音を吐く事が今までなかっただけに、この時のUの疲れ果てた声は、強いインパクトとなって私の心に響いたのでした。

一般の方から見れば、犯罪の世界に生きるヤクザになんの苦労があるものか!と思われる方も多いかも知れませんが…
そんな極道の世界にも『食べる苦労』と言う言葉がありました。

『部屋住み』と呼ばれる自由の無い修行期間を終えたUは、持ち前の才覚と根性で、組の本部長にまでなったものの、舎弟分など自分を慕う人間も増え、そうした人間の面倒を見なければならず…

かと言って、自分の地元から遠く離れている事もあり、中々思う様に未開の土地で、人が繋がらず金を生み出せぬジレンマに陥っているであろう事は、私にも薄々感じとれていた事でもありました。

しかしながら、そんな時でも、教科書があるわけでもマニュアルがあるわけでもない極道の世界…
自分で切り開いて行く他ないのです。

時には金の流れてきそうな所を見極め喰らいついてでも…

時には八つ当たりをカマすかの様に、金を脅し取ってでも…

ある面、隙間産業とも言われた極道の資金源と言うもの、法を破る事において確信犯なヤクザにとって、その発想や着目するポイントと言うものも、快楽や虚栄を求める人間の弱さや、社会の恥部や盲点にフォーカスされたものがあったりで、恐るべき発想やアィディアを閃かす人間と言うものもいたもので…
当時、そうした人間を見る時など、生き方転じて表社会でも成功しそうなものだと思ったりもしたものですが…

本人の中にある影が、それを許さずに抗う事は、その後において人の中にも自らの中にも見てきた事でもありました。

今の極道の世界の事は私にはわかりませんが、当時は、若い内から分別臭い様ではとても伸びて行けない世界でもあった様な気がします。

その道の偉い方が私に『いいか…極道はの、殊勝な事は考えんでええんや…。』と言ってくれた時があったものでした。

世間からは蛇蝎の様に嫌われるヤクザではあっても、影で熱心に信心をしている方や新興宗教の教団に加入し、心の拠り所を求めている方もいたりするものですが…

でも、振り返って見る時、ヤクザと言う生き方が一つの宗教を為すかの様なものだった事…
それは『ヤクザ教』とさえ呼べるものだったのかも知れません。
しかしそこに信仰や、スピリチュアルな気づきと言うものが芽生え、自分の中でその比率を大きくして行く時、自らのヤクザの部分を揺さぶり、段々と極道としてやる事なす事が、うまく噛み合わず機能しなくなる時が訪れる事は、何よりも自分自身に見てきた事でもあったのです。

今までも、過去に裏社会にいた人間がその過ちを悔いるかの様に、新興宗教の活動に没入してしまい、それを心配されるご家族から相談を受ける時があったりしましたが…
自らの闇を打ち払うかの様に真摯な思いで飛び込んだであろうその本人の思いも理解出来るものがあったりで、洗脳や縛りなどのカルマを発生させやすい問題はあるものの、かえって前途に明るい兆しが出ている事などをお伝えさせて頂く事もあったりしたものでした。

人生の再生と言う事において、縋る様に飛び込んだ新興宗教と言うものにでさえ、人を一定の安心の境地に引き上げる働きさえあるのかも知れません。

ただ、入口あれば出口ありで、教団や組織が発生させやすい営利やノルマと言った磁場からも逃れ、いずれは個人としての信仰や信心に移行出来れば望ましいのでしょうが…
でも後になって、何が是で非であったのかは自分のみぞ知るところでもあります。

少し話しが逸れましたが…

極道として生きるとは、時には無軌道な暴力、時には計算された暴力の使いわけも、その場面に応じて身体で覚える一方、組織や上の人間に対する忠誠も問われ…それはある面、暴力と規律と言う二律背反の境地を生きる事でもあり…

こうした事が『清濁合わせ呑む』と言う諺の様に、不条理や矛盾のサバイバルの最中にさえ、ズシリと腰を据えて生きる感覚を生み出していくのかも知れません。

かと言って、若い内より金を持てるほど甘い世界でもなく…
意地とプライドは人一倍あっても、来る日も来る日も空回りする月日も続いたりする時もあったりするものです。

何処かで人を泣かせてメシを食べるのがヤクザと…
若い頃にその道の先輩が自嘲するかの様に語るのを聞いた時がありましたが…

そうした業の深い自らの生き方も、自らが落ち目となってどうし様もない時でも、手を差し延べ助けてくれる周囲の方の情に触れる時…
反動の様に、自らを責める感情となって湧き起こったりするものの、極道の世界に生きる信念がそれを許さず消し去っていたのかも知れません…。

私はこうした過去を記した記事においては、あえてスピリチュアルな観点での解釈や用語を用いません…。
何故なら意味を濁ったものにしてしまい
、読む方に混乱を生じさせるものを感じるからです。

この娑婆を生きる私達人間は、何処かの部分で『報復される事の恐れ』と言うものを常に生み出し、しがみつかないではいられない様な信念を用意する事によって、人を攻撃する事をも正当化し、信念を益々強いものとし、延々とその輪を描いている事は、裏社会だけの事ではないと言ったら…
一般社会に対する冒涜になるでしょうか?

この時のUの電話の声を聞いていた私は、いつもならば半ばおどけた調子で励ます内容の言葉で締めくくったのかも知れませんが、この時ばかりは、Uの声音に拭い難い深刻なものを感じ…

いたずらに軽口を叩く事が出来ずに、別の話題に切り替えるのが精一杯だったのです。

電話を切る時に『遅い時間に愚痴な話しをしてすいませんでした、でも少し気も晴れました。』と語るUの声に少しばかり安心した私だったのですが…
それでも後ろ髪引かれる様な思いを拭い去る事ができませんでした。

自らの寿命を見切るかの様にさえ聞こえたUの電話の言葉の如く…これがUの肉声を聞いた最後となったのです。

翌日の深夜…Uは国道を乗用車で走行中、交差点に進入したところを横から大型トラックに激突され車外にほうり出されてしまい、全身を打撲し死んでしまったのです。

国道の交差点にかかる歩道橋の一方の橋げたが大破する程の大事故でした。

余談ではありますが…Uが亡くなった一週間後、今度はその道路の対目で同様の大事故が起こった時などは、寂しく死んで行ったUが成仏出来ずに、他の人間を道連れに連れて行こうとしたかの様にさえ私には思えたものでした。

合掌・つづく

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