★バリ島のシャーマン⑥

先日の講話会での事…

私の約1時間30分程の話しが終わり、来て下さった方の質問を受ける段になりました。

一人の方が遠慮がちに手を挙げ…
「私は東洋系の占星術を学び占い師もしていますが、日頃から神が何処にいるのか?どうしたら神を見る事が出来るのか?疑問に思っています。そういう意味では仏教や密教にもとても興味があります。」と意味深長とも取れる質問をしてきました。

それに対し私は「仏教や密教にこだわる必要もないのでは?」と坊さんらしからぬ話しから始まり、日頃から私が感じている神仏観などを話させて頂いたのですが…

実は、この方の質問の中にこそ、今回の記事の核心、バリ島に行った時に、シャーマンから『あなたは今世は楽しむ為に生まれてきた』と言われた鍵があるのです。

バリ島のシャーマンの記事を読んでこられた方はお分かりだと思うのですが、私の過去世を他の方に見て貰った時も、瞑想時に自分でそれを垣間見た時なども…

そこに見えた姿とは…
武将や僧侶、神道や修験道の行者、ある時は敬謙なクリスチャンの姿もありました。

そうした過去世の姿がいったい何を意味していたのか?

また、今世で極道の世界に足を踏み入れた事にさえ何か霊的な意味があったのか?

そこに垣間見えるのは信念系の世界、掟や戒律、修行やや教義と云ったものに従って生きている姿…

はたまた侍や極道というひとつのストイックなまでの『滅びの美学』に根差したかの様な人生観…

修行や荒行や苦行と言う事によって自分を極限まで追い込む事で神や仏を見出だそうとしたかの様な過去世での姿…

厳しい戒律や教義といに従う事で神や仏に寵愛を受ける事が出来ると信じていた自分…

読んでいてお分かりになるでしょうか?

私は繰り返し繰り返し、信念や特定の宗教観に従う事で、自分の全存在を肯定し、揺るぎない安堵出来る存在や境地を求め、神や仏をそこに見出だそうとしたに違いないのです。

時には人の指し示す教えに真実を見出だそうと血眼になり…
身体を痛めつけ、極限の緊張まで自らを追い込む事で、神に近づけると思っていたのです。

数百あるとも言われる人間の過去世の姿…

その全てを私はとてもではないが知り得る事など出来ません。

また過去世と言えども、人としての日常や営みがそこにはあるのであり、そのどれもがロマンに満ちたドラマチックなものだったとも到底思えません。

しかしながら、今世において、繰り返し他者から指摘され、また自分で見る事の出来た信念や掟に従い生きる姿…
宗教の概念と実践に生きる姿から来るメッセージとは何だったのでしょうか?

私はバリから帰国後に大きな疑問に直面しました。

それは、寺院や神社や教会、はたまたパワースポットと呼ばれる場所にしか神はいないのか?

特定の宗教の礼拝作法や所作がなければ神や仏とは繋がる事が出来ないのか?

次から次へと疑問が沸々と湧き上がってきたのです。

バリから帰国後、私はこうした疑問をまるで払拭する様に、時を経て、真言宗僧侶になるべく得度から伝法灌頂を受け、それと同じくして、気功を習いヒーリングのセミナーを受講したりしたものです。

その中で現在に至る迄、実に多くの気づきと学びがありました。

宗教とスピリチュアリズムの違いというものも大きかった様な気がします。

例えば、仏教で言えば、師僧と弟子の関係は終生まで変わる事がありません。

師と弟子…
それは以心伝心、師僧の教えや想いを体得し、共に精進して行くその姿というものは美しい一枚の絵にさえ成りうるものです。

極道の世界でも私が若い頃は「部屋住み」と呼ばれる修行の時期があり、朝も早くから叩き起こされ、掃除に洗濯、炊事、電話番、履物を揃え、親分の靴を磨き、タバコの吸い殻が2本とたまらない内に灰皿を換えるのも当たり前で、お茶を出し、おしぼりを出し…

真冬の寒い日でもホースを引っ張って来て、車を洗い、おかずの買い出しから、上の人間が麻雀をしていれば、付きっきりでお茶をいれ、タバコをくわえればすかさず火を点け、寝る時間さえない事さえ間々あったものです。

「挨拶が悪い!むかっ」と言われては怒られ、「電話の取り方がわるい!むかっ」と言われては怒られ、「メシの炊き方が悪い!むかっ」と言われては怒られる日常…
街の一介の不良少年がこうした生活を経て、それまでのグウタラな性根を叩き直されてしまうのです。

気持ちの優しい弱い子はこうした厳しさに耐え切れず、逃げて行ってしまいます。

自由のないその頃は、スーパーに買い出しに行く時や、床屋で居眠りしている時が憩いのひと時でもあったものです(笑)

こうした修行の時期に私は、その道の先輩達に「御苦労さんすっ!」と口では言いながらも、腹では「見てろよ!いつかお前らに俺のお茶くみをさせたる!」と思っていた生意気な若者でもありました。

私はヤクザ当時でも年長者の引き立てに恵まれているところが多分にあり…
そうした事もあってか、名だたる親分と呼ばれるひと達の修行時代の苦労話しを聞く機会も多かったのですが…

ある方は、自分の親分が「お~い!」と隣の部屋から自分を呼ぶその声を聞くだけで、「タバコを欲しているのか?」「爪切りを持って来い」と言っているのか?出かけるので、車を表に回して置けという事なのか?を瞬時に判別が出来たと言います。

私が、僧侶の師弟関係と、極道の親分子分というものに同じエネルギーを感じるというのは実はこうした部分でもあったりします。

歴史上の話しになりますが…
石田三成が豊臣秀吉の小姓をしている頃、鷹狩から帰ってきて喉の乾いている秀吉に初めは冷たいお茶を出し、次には温めのお茶を出し、最後には熱いお茶を出した事から、その非凡な機転の良さを認められた話しが伝わっていますが…

ヤクザの世界にもそうした繊細な能力の持ち主はたくさんいました。

話しが少し逸れてしまいましたが…

師と弟子の関係というものは
、ある面、師から弟子がコントロールを受けてしまう危うさがあります。

何かにつけ、口うるさく干渉してくる師僧というものを持った場合に…
教義や想いの部分に師僧のエネルギーの影響を受けたりで、自分の想いや自分の目(心の眼)で神や仏を見る事が出来なくなってしまう事もある様です。

こうした状況というのは、エネルギー上で見ると、人間の頭頂部にある人間の宗教性やスピリチュアルを司る第7チャクラと言うエネルギーセンターに、師から弟子に対して、エネルギーコードと呼ばれるエネルギーの侵害を現す状態が見られる場合があります。

例えば、最もわかりやすい例で言えば、カルト教団の教祖から信者になされている場合が多かったりもします。

こうしたオーラやチャクラと言う人間のエネルギースペースに、例えそれが師であろうと、愛する人であろうと、他の人間のエネルギーが侵入する事を人間の本質は嫌うのです。

何もこれは宗教やヒーラーに限った事ではなく、親から子供へ、夫婦や恋人、はたまた会社の上司から部下へと言う具合に、その関係を選ばない事象でもあります。

こうなると、人間関係はうまく機能しなくなってしまう様で…
コードを付けている側は自分の主張や要求を押し付ける様になり、相手を支配する立場が維持されていないと不安を感じてしまう傾向があり、

またエネルギーコードを付けられた方は、言い様のない不安や自分が何処にいるのか分からない不安に苛まれたり、葛藤に苦しむ様になったりもする様です。

母親が子供を思うあまり、子供の肩にコードを突き刺しているケースもあり、リーディング(透視)をしていると、私に訴える肩コリや身体の不具合の原因が、親からのエネルギーコードの場合もあります。

基本を教えたら後は本人の学びに任せ「学びの芽を摘まない」というのが、師たるものの本来の姿、また霊的教師と呼ばれる人間のあるべき姿なのかも知れません。

どんな高僧であろうとも、スピリチュアルな教師であろうとも、こちらからあちらへと言う具合に、架け橋の役割をしたら、そこでお役御免の様な気さえします。

依存し、また依存させるところにカルマが生じる事もあるに違いありません。

私が今ハッキリ確信している事があります。

それは人間の魂はいつまでも、他者に隷属したままの状態では決していないと言う事です。

今世で他者のコントロールを受けて、真の自分を表現出来なかった魂は、来世でそのカルマの解消を図ろうとするに違いありません。

また今世で、他者をコントロールし、人の自由意志を尊重しなかった魂は、来世では逆に猛烈な他者のコントロールや干渉を受ける経験を自ら望むのやも知れず…
人間が平等というのは、まさに魂の歩みを差している以外の何ものでもない様な気がします。

私は過去世では神道系の行者としてお手当て(ヒーリング)をする事により信望を集め、多くの信者に影響を行使していた時もあった様で、他のヒーラーや霊能者にも指摘された事があります。

今となって思う事は、こうした行者だった頃に私を崇拝した魂というものは、今世では極道当時に私の組の若い衆として私と出会い、他者を責めるに厳しいエゴな私の嫌な面ばかりを見る事によって…

私に失望し、私から「卒業」し、自由になる事を選んだ魂もいる様な気がします。

私が今世で思い出し学ぶべき大きなもの、それは自由意志を尊重する事だったと思うのです。

以前の私であれば、人から相談を受けても、先の先まで示唆して「こうしなさい!」と決めつけるかの様なスタイルだったのです。

でも、これと言うのは、結局その当人に考える事を許さずバカ扱いしているに等しい事だと気付いたのです。

提案はしても決断は本人に任せる。
これがないと本人の学びの芽を摘んでしまうばかりか、こちらに対する依存を生み出してしまう場合もあるのです。

ある日の事…
瞑想中に私はハイアーセルフに「私は全的に僧侶として生きるべきか?」と問いかけた時があります。

すると…「あなたは以前は衣装持ちだったろう…」と言うメッセージと共にハンガーに吊るされたたくさんの洋服が見え、次の瞬間にはその洋服の中から、ポーンと一着の服が目の前に投げだされました。

見るとそれは私が日々のお勤めで着用している法衣でした。

そのメッセージの言わんとする事は、僧侶としての活動も「真の自分」の姿を表現する数ある中の一側面であるに過ぎないと言うものだったのです。

実は、これこそがバリ島でシャーマンが私に「今世はあなたは楽しむ為に生まれてきた」と言ったその答えでもありました。

頑なでストイックな信念を手放し、特定の宗教の概念や教義に縛られる事なく、自由闊達に神や仏に親しむ…

私は真言密教の神や仏が大好きです。
仏教の神や仏も、神道の神も他の宗教の神も長い世紀をかけて拝まれ親しまれ時には恐れられ、その国の民族観と共に祈りのエネルギーが結晶化し、私達の目にわかりやすい形で実態化したに違いないと思っています。

そしてそこに神や仏のエネルギーがある事も…

私達は肉体を含む全ての物質が原子や素粒子で出来ている事を知っています。
そして高速運動をしてその隙間は空間であり、全ての物質は例えそれが神社であろうとお寺であろうとパワースポットであろうともエネルギー上で見れば私達の身体とひとつ…

場所によって、そのエッセンスの濃い薄いはあるのやも知れませんが…
神の存在しない場所などないと思います。

阿鼻叫喚の地獄、戦争の最中にさえ神は再生の種を蒔いているに違いありません。

そして何よりも神の子である私達人間の人生そのものに現れるのではないでしょうか?

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バリの帰途、窓から見た積乱雲に囲まれた神の島バリ…
ガムランの音色と共に懐かしく思い出す時があります。

【完】

合掌

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